夏中/優しい謝罪は心を止める楔となって/病んでる


−「ごめんね。」
 あの日から、俺はずっと気持ちが宙に浮いたまま。

 朝日、目覚め。日が昇ると同時に起きた俺は寝間着を脱いでいつものシャツを羽織る。ズボンも靴下も靴も履いて、コートと帽子はまだいつもの置き場に置いたまま部屋を出た。顔を洗う為に外に出て、外の水道で顔を洗う。屋敷の中の洗面所はこの時間でも人が何人も居るだろうから、俺はここに来ている。あの人も、ここをよく利用していた。

 食堂で板垣から簡単な朝食を受け取って部屋に戻る。珍しく廊下で誰にも会わずに部屋に辿り着き、ドアを開く。部屋の中に入って机の上にお盆を置けば開けっ放しだったドアの向こうからおはようと声がかけられる。振り向いたがそこに人はおらず、足音から通りがかりに声をかけただけだと分かった。ドアを閉めてひやりとしたドアノブを撫でる。あの人も通りがかりにおはようと声をかけてくれていた。

 朝食は炊いた白米とワカメと豆腐の味噌汁。それに沢庵だった。それらをゆっくりと食べる。味はあまりしなかったが、最後に湯呑みの茶で胃の中へと押し込んだ。食べ終わった食器を眺めた。そういえばあの人は食べ終わったら甘味を欲しがっていた。

 廊下に食べ終わった食器を置き、ごちそうさまと書き置きをして添える。部屋の中に戻ってドアの鍵を閉め、机に向かった。午前中の光を浴びながら黙々と翻訳の仕事をする。何も考えず、ただ目の前の仕事のことだけを考えた。辞書を引っ張ることをしながら作業をしていれば、ふと鉛筆が丸くなっていたことに気がついた。あの人は丸くなった鉛筆を見て面倒そうにしていた。

 ドアがノックされ、開けば国木田が不満そうな顔で昼食がのった盆を持っていた。どうしたのかと首を傾げれば、さっさと受け取れと言うので受け取って机の上に運ぶ。そんな俺の背中に国木田は荒んだ声で言った。
「心配しているんですよ。」
 彼女のことだろうかと考える。彼女は優しい子だから、些細なことでも気にしてしまうのだろう。
「……もういいです。食べ終わったらいつも通り部屋の外に置いておきなさい。誰かが運びます。」
 その言葉に振り返る。
「ありがとな、国木田。」
 国木田の顔が不快そうに歪む。その顔の皺を眺める。あの人はいつも笑顔だった。

 昼食を食べれば夕方になるまで仕事を続けた。夕方になれば明かりが足りなくなるので電気を付けた。蛍光灯の白い光の中で作業を続ければ、ノックがした。また誰かが食事を運んできたのだろうと立ち上がり、ドアに手を伸ばして、声がした。
「中原君。」
 時が止まったかのようだった。
「こんばんは中原君。今日はよい日だったかな。私はね、いつも通りの日だったよ。」
 穏やかな声は紛れもなく、ドアの向こうにあの人が居ることを告げていた。
「ねえ、中原君。ドアを開けておくれ。いい子だから。」
 手が震える。違う。腹の底から広がるように身体中が震えていた。立っていられずによろめき、音を立てて床に座り込む。その間もあの人の穏やかな声がする。
「国木田君が怒っていたよ。他にもね、みんな私に文句を言うんだ。まったく、ひどい話だね。ほら、ゆっくりと呼吸をしてごらん。吸って、吐いて。」
 あの人の声に操られるように深呼吸をする。まるであの人が何の隔たりもない、すぐ近くに居るような錯覚がした。
「震えが止まったね。じゃあ立ってみよう。そうだね、ドアを支えにしてみようか。」
 体を引きずるようにしてドアに寄せ、そのままドアに体重をかけてゆっくりと立ち上がる。呆気ないほどに俺は確かに立っていた。
「さあ、後は分かるね?」
 吸い寄せられるように指は錠へと伸びていた。開いた扉の先にはあの人が立っていた。
「嗚呼、ようやく会えた。」
 頬を何かが伝ったような。

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