深緋の籠番外/後悔はしない


「伊月ー!」
「あ、今吉さん」
 こんにちはと、伊月が笑う。その後ろには船の仲間がいたが、一時とはいえ、仲間として過ごした今吉と会って来いと背中を押していた。
「お一人ですか?」
「いや、笠松が居るで。買い物してるんやけど、ワシが伊月を見つけたから、行ってこいって」
「そうなんですね」
 お見通しかなあ。伊月はまた、笑う。しかし、今度は寂しさを滲ませていた。今吉は指折り、何かを数える。
「ひぃふぅ、みぃ、やぁ。なあ、降旗はどうしたん?」
「彼は、船を降りました」
「それだけやないやろ」
「……はい」
 伊月は肺から息を出し切って、告げる。
「彼は元の世界に帰りました」
 今吉はそうかと、微笑む。
「寂しいか」
「いえ、元々、彼はこの世界(ミラルエ)の人間じゃなかったので」
「論理で分かっとっても、感情が追いつかんのやな」
「はは、今吉さんには何でもお見通しですね」
「きみの鷲の目ほどではないで」
「いや、目より、恐ろしい」
 分かっているんです。伊月は俯向く。
「異界の書について、調べました」
「降旗の持っとった本やな」
「はい。あれは、正真正銘、異世界を渡った者が持つもので、そもそも、この世界(ミラルエ)における降旗光樹は、死んでいる」
「……そう」
「事故死だと、調べました。幼い頃に死んでいた。この世界(ミラルエ)に降旗は居なかった。フリの役目は、世界(ミラルエ)を超えた知識だったのだと思います」
「知恵なあ」
 まあ、助けられたな。今吉が言うと、とても、と伊月は同意した。
「とても助けられました。そして、それ以上に脅威だった」
「黒子に知恵を与えたのも、降旗だったな」
「はい。船を浮かせられたのは、降旗の異界の書による知識が大きかったです」
「そうだったなあ」
 今吉はしみじみと言う。伊月は、そうだったと繰り返す。言い聞かせるようなそれに、今吉はなあと語りかける。
「後悔、しとるん?」
 それだけは。伊月はぎゅっと手を握りしめて、顔を上げた。今吉がいつもの温和な笑みを浮かべている。あの、一時的な、旅の仲間だった頃と同じ。優しくも、底の見えない笑顔があった。
「それだけはありません」
「ホンマに?」
「勿論です」
「なら、ええわ」
 今吉はポンッと伊月の背中を叩いた。
「立ち止まったらアカンで若造」
「大して、年が変わらないのに」
「ワシ、年下に弱くてなあ」
 泣いたらアカンよ。前を向いて、堂々と土を踏みしめるんやで。
「全ての選択は間違いなかったんや」
「貴方が、天使になったことも?」
「勿論や」
 本当に、伊月は泣き笑いを浮かべる。熱い涙が頬を伝う。
「貴方ともっと早く出会いたかった」
 高望み。今吉が言ってみせると、本当にと伊月は肯定した。そこで笠松が遠くから声をかけてくる。隣には高尾がいて、どうやらたまたま会ったらしい。
「じゃあ、またな」
「また、が、あるんですか」
 再会を願ってもいいの。伊月が縋るように言うと、何言っとるんと今吉は告げた。
「君らの船、分かりやすいやろ。近付いたらすぐ分かるで!」
 だから、それだけ。今吉は駆け出す。その胸元、赤いペンダントを、伊月はじっと見ていた。彼が天使である証であり、それを後悔しない印。ああ、空が青いなあ。伊月は涙を拭って、仲間の元に戻ったのだった。



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