深緋の籠32


 その次の日、その夜。今吉は福井からマナ調整を受けることになった。もう片手だけでは数えられなくなったその行為に、今吉は慣れた様子で横になった。福井はそんな今吉の体に手をかざし、いつもの様に処置を施していく。しかしいつもならたわいない軽口を叩くのに、その日は何も言わなかった。無言の福井に、今吉は不思議そうに目を開いた。いつの間にか、福井の手は止まっていた。
「心残りはないのか」
 震えを抑えた声に、今吉は何がなのかと問いかける。福井は躊躇うように視線を彷徨わせてから、目を伏せた。
「俺には言わないって分かってるけどよ、でも」
 雰囲気だけで先を促す今吉に、福井は続けて語った。
「神子にとって信仰する神は“絶対”だ。そんな事は百も承知だけど」
 うん、今吉が相槌をする。福井はその声に反応するように、今吉の目を見た。
「遺される奴の気持ちも考えてくれよ」
 頼むから、そう言葉の裏で囁かれて、今吉は苦笑した。
「福井は、それが可能だと思うん?」
「それぐらい、分かってる」
「そんなら、無意味な質問やな」
「ああ、そうだな。その通りだ。神の御前では誰の声も、他の思考も、全ての優先順位が下がる」
 福井は熱のこもった声を速める。
「青の自警団の、手を振り解いた桃井って女の様に」
「そうやな」
「神の行いだというなら、視力さえもどうでもいいって言う氷室の様に」
「ああ、その通りや」
 今吉が微笑みを浮かべて肯定すれば、福井はそれを見て、ふっと疲れたように笑った。
「神子ってのは、馬鹿だな」
「そうやなあ。きっと、世界でいちばん大馬鹿者なんやろな」
 死ぬことを肯定する。その先を焦がれる。そんなの、普通の人間からしてみれば大馬鹿者以外の何者でもないと。今吉が語ると、福井の目がきらきらと滲んだ。唇を噛み締めて涙を堪える少年の姿をした男に、今吉は優しく言った。
「だから福井、泣いたらアカンよ」
「……」
「大馬鹿者なんかのせいで泣いたらアカン。きみは前を向いて、やるべきことがあるんやろ」
 福井は頷く。今吉は優しい声で続ける。
「氷室の目を取り戻すんやろ」
「その通りだ」
「だから、泣いとる暇なんてないやろ」
「そうだな」
 全くもってその通りだと、福井は笑った。堪えきれなかった涙を一筋だけ流し、痛々しく笑う姿に、今吉はそっと上体を起こして彼の背を撫でたのだった。

………

 朝、皆が起きて再び白亜の神殿へと向かう準備をする。朝の支度の慌ただしい中、笠松と今吉は川のほとりで会った。
 笠松と、今吉が呼ぶ。何だと、笠松が答えた。
「今までありがとう」
 一音一音を噛み締めるように発せられた言葉に、笠松が首を傾げた。
「どうした」
 そう笠松が問いかけると、今吉はひょいと肩を竦めた。
「きっと、ワシは深緋様に求められたら拒否できん。氷室と違ってもう神子に成っとるし。やから、ごめんな」
 ごめん、と一度だけ繰り返した今吉に、何だそんなことかと笠松は答えた。
「それでも、俺はお前を助ける」
 迷いのない言葉に、今吉は目を見開いてから、くしゃりと笑った。
「きみは変わらんなあ」
「人間、そんなに変わんねえよ」
「そっか。笠松が言うなら、そういうもんなんやろな」
 そんな気がすると、今吉は目を細めて遠くを見つめた。笠松はそんな今吉をじっと見つめ、それからすいと彼の見ている方を見た。そこには朝日を浴びてきらめく川の流れと、ざわざわと囁く木々があった。
 しばらく見つめていると、今吉が唐突に口を開いた。
「なあ、笠松」
「おう」
「きみ達と過ごした日々を忘れんよ」
「そうか」
 あまりに普段通りの声色に、今吉は少しだけ不安そうに笠松をうかがった。
「笠松は?」
 その寂しげな声に、笠松は笑った。
「俺も、忘れねえよ」
 絶対にと、今吉を見つめた笠松に、少年は安心したようにふわりと笑った。

………

 まだ準備があるから、そう言って今吉が野営地へ戻って行くと、木陰からそっと少年が出てきた。残っていた笠松はいつものんびりと明るい彼の様子がおかしいことに気がつき、片眉を上げる。少年、春日はきゅっと手を握りしめて言った。
「どうして止めないの」
 その言葉に、笠松は何でもないように答えた。
「できねえよ」
「そんなわけない、だってきみたちは誰よりもお互いを選んだ。選んだ筈でしょ!」
 叫んだ春日の周りで、くるりくるりと妖精が舞う。笠松はそれをどこか遠くを見るように見つめて、答えた。
「それでも、いや、だからこそ、俺は止められない」
 嘘だ、春日は叫ぶ。
「なんで! 特別なんでしょ、相棒なんでしょ!?」
 笠松なら止められるんじゃないか、そう春日が顔を上げれば、笠松は真面目な顔をして腰に差した小刀を撫でた。
「俺は、あいつと支え合うと決めた。そしてそれは、誰よりもあいつを信じるってことだから」
 誰よりも、どんな人よりも、俺は今吉を信じてる。そう言った笠松に、春日は目を潤ませて、頭を抱え、叫ぶ。
「分かんないよ、俺、分かんない!!」
 そんなのおかしいと彼は叫び、その場に崩れ落ちた。
 その様子を笠松はじっと見つめていたが、やがて歩き出すと、その隣をすり抜けるように通り過ぎて行ったのだった。
 残された春日の、その背中が揺れるたび、彼の周りをくるりくうるりと妖精が舞っていた。

 そうして、少年達がそれぞれ思いを抱く中、白亜の神殿はもうすぐ近くに迫っていた。



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