笠今/やわらかな あしあと/捏造社会人/40000hitありがとうございました!


 柔らかな砂に、微かな足跡を残した。
 海のような心の持ち主だと思う。それも、荒々しい父のような海ではなく、生命を生む母のような海でもなく、凪いだ海だ。静かな、風も吹かない、凪いだ海だ。
 そんな海は底が見える。深海と呼ばれる場所では、光が反射しきれず、暗い闇が見える。だから彼は、わりと浅い方の海だ。
 珊瑚礁のカラフルな景色。様々な魚が居心地良さそうに、外敵から解き放たれたように、泳いでいる。ワシはそんな魚の一匹だろう。小さな魚で、気を抜けば肉食魚に食べられてしまう。クマノミなんて可愛らしく、隣人のいるような魚ではない。大勢で群れるような、タチでもない。ワシは一匹で、ひょろひょろと苔でも食べて暮らしてる。ああでもそうすると、海ではなく川の方が居心地が良いのかもしれない。それでもワシは、彼の海に居たいと思ったのだ。
「翔一、何してんだ」
「鯛を捌いとる」
 今夜は鯛飯だと言えば、旨そうだなとネクタイを解いた。今日はスーツを着て行く用事があったらしい。ワシは自宅で仕事を請け負うプログラマーで、笠松は小さなベンチャー企業で働いている。アイデアと閃きが重要視される現場でウンウン唸っているらしい。ちょっと見てみたい気もする。
「あとはすまし汁も作ろか。昨日の残りの肉じゃがもあるしなあ」
「お、いいな」
 だから早く着替えてこいと言えば、分かったと寝室に向かった。その気配を感じてから鯛飯の用意をする。
 洗って水と昆布に漬けておいた米を炊飯器に移して調味料を垂らし、表面を均す。平らになったら焼き目をつけた鯛を入れて、スイッチを押した。あとは待つだけなので適当にすまし汁を作って肉じゃがの様子を見る。食べる直前に温めようと決めて、ワシは黒い無地のエプロンを外した。

「パソコンの電源切れてるけど」
「料理中はどうせ作業出来ひんし、丁度良いから保存して落としといたわ」
 しばらく冷まさなければと言えば、また長時間無理な動作をしてたのかと飽きられた。確かに今のスペックは今回の仕事と噛み合っていない節がある。少し改造しても良いかもなと呟きながら緑茶を淹れた。
 湯呑みを机に置けば笠松が座る。ワシも座ると、そういえばさと笠松は言った。
「買ってきたんだ」
「また何か買うてきたんか」
 今回はなと机に出したのは有名店のマカロンで、女性社員に勧められたのだと笑っていた。その言葉にお前なあとワシはため息を吐く。
「まだ職場に奥さんて言うとるんか」
「間違いでもねえだろ」
「性別もちゃうし、籍も入れとらん」
「先週末に苗字が一緒になった筈だけどな」
 にっこりと笑みを浮かべた笠松に、嗚呼もうとワシは顔を覆った。
「幸男って呼べばええの」
「そう決めたな」
「まだ慣れん」
「時間は幾らでもあるだろ」
 ゆっくり慣れろと笠松は笑っていて、マカロンなら紅茶だなと席を立った。ワシが淹れようかと言えば、たまには台所に立たないとと言われた。でも笠松の調理風景は危なっかしいからなと言って、まあ紅茶ぐらいならとワシは席に座り直した。


 炊飯器から徐々に漂う鯛飯の匂い、微かな磯の香り。二つずつ食べたマカロンの箱には、まだカラフルな菓子がある。残りは夜の茶の時間でいいかと、二人で笑った。

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