笠今/ふたりの軌跡/S(少し)F(不思議)な話



 目を閉じて、波に攫われてしまうように。意識が落ちてしまう。


 目を開けば朝焼けに染まる何時もの街がそこにあった。木製の建物、時折レンガで出来たものもある。俺はそっとベッドから抜け出して、家の外へと出た。両親も弟たちもまだ夢の中だ。
 二人だけ顔見知りの街人と出会って挨拶をしながら街の中を駆け抜ける。まっすぐ向かうのは街の出口、街外れにある楓の木だ。
 楓の木の下で黒いカーディガンを着たあいつがいた。いつもそのカーディガンを着るそいつはショウだ。正しく言えば今吉翔一。ここでだけ、俺はあいつをショウと呼んだ。ショウは俺を見つけて大きく手を振った。俺もショウもまだ幼い。そんな行動をしても何もおかしくなかった。
 楓の木の下に着くと段々と明確な朝になってくる。ショウは弾んだ声で言う。
「ユキ、今日は何しよか。かくれんぼ、川遊び?」
「いや、森を探検しよう。川の向こう、まだ行ってねえだろ?」
「ユキと行っとらんもん、一人では行かんわ。」
 クスクスと笑い合って、俺はショウの手を引く。さあ、行こうと。

 春の森は夏よりも澄み切った冷たい空気に満ちている。そこに芽吹いたばかりの草花達が放つ生命力あふれる匂いと、朝露に濡れた土の匂いがした。早起きな鳥の鳴き声と虫たちのざわめき。それらは俺の脳味噌をどんどんと目覚めさせていくようだった。
 スニーカーを露で濡らしながら早歩きで進む。ショウはそれに難なくついてきてくれた。お互いに行ったことのない場所へ行くことに期待が満ちているのだろう。
 ザァザァと川の音がし始めれば、川はもうすぐだ。小川と言うには大きすぎるし、河川と言うにはなんだか貧相な、そんな川は沢に近いのだろうか。とにかくそんな川を前に俺たちは顔を見合わせた。
「どうやって渡る?」
「橋があるやろ。」
「でもなあ、折角だから入ろうぜ。」
「それはええな。」
 にっこりと笑い合って、スニーカーと靴下を脱いで二人で川に入る。スニーカーと靴下は片手に、もう片手は手を繋いで川を進んだ。穏やかな流れだが、深さがあれば自然と強い圧を感じる。なるべく浅いところを二人で探して、慎重に渡った。
 川の向こうに着けば二人で河原を歩いてから近くの草地に座り込む。ショウが息を長く吐いてから疲れた声を出した。
「疲れたわー、案外川を渡るって辛いもんやな。」
「水の事故が多いことがよくわかるな。」
「ほんまにな。あ、もしかして結構危ないことしたんやろか。」
「いいんじゃねえか、咎める人なんていねえだろ。」
 そう言えばショウは嬉しそうにそうやなと、はにかんだ。
 瑞々しい空気を目一杯吸い込んでから立ち上がり、また手を繋いた。そして森に向かって立ち止まる。くいと手を引っ張られ、ショウを見れば楽しそうにしていた。
「ほな、行こか。」
 俺は頷いて、ショウの引っ張るままにまだ知らない森の中に踏み込んだ。
 森というだけなら同じ場所なのに、まだ歩いたことのないそこは全く知らない森の中だった。当たり前のそれがこんな身近にあることが不思議で、引っ張ってくれるショウと会話することなく、遥か上にある枝から生える木の葉や地面に這う木の根、群れる草木や手入れされてもいないのに咲き誇る花々、時折飛び出してきて地面を跳ねる虫たち。それらに目を奪われていれば、大きな鳥が羽ばたく音がして驚く。するとショウが立ち止まって上を指差した。そこには木の葉の隙間から見える空があって、大きな鳥が円を描くように飛んでいた。
「とんび(鳶)や。」
「よく分かったな。」
「鷲や鷹はよう分からんけど、とんびなら分かるで。」
「そうなのか。」
「昔、よう見たから。」
 上を見上げたまま動かないショウに、俺は歩いて手を引っ張った。ゆっくりとを俺を見たショウに笑みを返す。
「先に行こうぜ。」
「……うん。」
 ショウは穏やかな顔になって、引っ張るままに歩き始めた。ショウの手は幼いからこそ柔らかく、小さい。俺の手も同じだ。ここでは俺たちは小さい子供なのだから。
 土と草を踏みながら歩く。時々、あれがあるこれがあると会話をしながら進んだ。フクロウの巣や、蛇の抜け殻。逃げ出す山兎に、ひょっこりと顔を出す山菜たち。知らない森だけれど、春の森はやっぱり美しかった。
 歩いてどれくらい経ったのだろうか。目の前に少し開けた場所が現れ、俺たちの体の何倍もあるような巨木が倒れていた。もう倒れてから何年も経っているのだろう。苔生し、ところどころから草の芽が伸びたそれは中身が一部空洞になっていた。俺たちは顔を見合わせて頷いてから、そっとその中へと入った。
 木の中は外よりしっとりと湿った空気がした。木の肌は苔で覆われ、ところどころ見える黒のような茶色い肌は触ればスポンジのように水を含んでいた。今にも朽ち落ちてしまいそうな場所だが、自然と安全だと思った。この木はまだ朽ちていない。まだ生きているような気がした。
 ショウと並んでしゃがむ。ショウが手を握る力を強くした。
「朝がもう終わってまうわ。」
 外を見てそう言ったショウに、俺はならと応える。
「明日はここで待ち合わせだ。」
 静かにこちらをみたショウは、微笑む。
「やくそく、やな。」
 その目がゆっくりと閉じていき、俺の意識はとろとろと溶けていく。まだ、まだ、もう少しこのまま。手を握る力が込められなくなって行く。
 そうして落ちていくのは、波に攫われるのとよく似ている。


 目が覚める。布団から這い上がり、時計を見れば時間はいつも起きる時間だった。固まった背中を伸ばすように伸びをし、布団から出る。そして携帯を開き、連絡先から何時もの電話番号を選んだ。何回目かのコール音の後、目当てのあいつが電話に出た。
『んー……』
「起きろ。朝だぞ。」
『ワシ、まだもうちょい寝れる……』
「お前な、んなこと言ってると朝練に遅刻するだろうが。前にあったし。」
『あー……せやったなあ。起きよ。』
「とりあえず布団から出て顔洗え。そんで諏佐に頭でも叩かれろ。そうすりゃ目が覚めるだろ。」
『諏佐に何させるつもりやねん。起きた起きたわ!おはようさん!』
「おー、おはよ。じゃ、切る。」
『せやな。しっかり朝ごはん食べるんやでー。』
「お前は俺の母親か。」
『ほな。』
「おう。」
 電話を切って携帯を鞄に仕舞う。さあ着替えようと制服に手をかければ、閉め忘れて網戸を晒した窓が目に入った。昨日の自分に呆れながら窓に近づけば、ふと、あの森の匂いがした。窓の外、鮮やかに色付いた草木が見える。なんだかそれらが微笑んでいるかのような気がしたのだった。

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