優しいとか思い出だとか 嘘 だとか。/宮今/一方的な別れからの復縁



 それはとある初春のことでした。
 出会った頃と何ら変わらぬ姿できみはそこに立っていた。寒いだろうと早くこっちにと声をかければきみは笑って後退する。その笑顔は一切の曇りがなくて、優しくて明るい笑顔で手を振った。ああ、さようならの時なのだとワシは分かったのだ。
 嘘つきはもうお終いなのだと。

 無音の部屋で起き上がる。部屋の中はダンボールしか無い。三年間使ったこと寮もこれでお別れだ。新たな住居はもう用意した。鍵だってこの手の中。眠ってしまっていても鍵はしっかりと握っていて思わず自嘲の笑みがこぼれた。ワシは怖いのだろう。だからこそ、嘘つきなのだ。
 使い慣れた携帯を開く。機種変更は三日後と取り決めてある。普段個人の連絡なんて殆どしないから、これがこの携帯の最後の役目だ。案外、文字を打つ手は早かった。
『今まで楽しかった、ありがとう。別れよう。』
 それだけだ。送信だってボタンひとつ。電源を切ればこれでもう彼は籠から飛びたったのだ。
 ダンボール箱を確認して部屋を出る。運んでもらう荷物も捨てる荷物も分かるようにしておいた。この部屋にはもう戻らない。隣で作業していた諏佐の背中に、お疲れと声をかければおうと気の抜けた声がした。さよならは小声にしておいた。新居も新しい電話番号も教えるつもりは無いからだ。
 薄手のコートで街を歩く。新居は電車を二つ乗り継いだ先で、駅から10分ほど歩けば辿り着く。閑静な住宅街にあるそこは一日のうちのいつだって静けさを感じる場所だ。だから、選んだ。嘘はもう懲り懲りなのだから。
 鍵を使って扉を開く。建て付けの悪そうな音がしたが、どうも油の問題らしい。ホームセンターに行った方がいいなと思いながら何もない部屋に入る。クリーム色の壁とこげ茶をした板張りの床。2LDKのそこは一応標準より大きいワシでも大丈夫なサイズの部屋だ。借りる値段が高かったが、仕事や学業以外は家の中に居るつもりなので無駄な出費だとは思わなかった。床に座って外を見る。ベランダは無いが、出窓にはなっている。観葉植物を置くのも悪くないと思った。嘘つきには物言わぬ植物が丁度良い。
 キッチンにはもう電気とガスが通っている。食事の為に財布を確認して部屋を出た。施錠の確認だけは慎重に。近くのスーパーまで15分。ぶらぶらと地理を覚えながら歩く。知らない街は当たり前に新鮮で、慣れるまで疲れてしまいそうだと苦笑してしまう。空を飛ぶ雀が目に入って、そんな雀の声がよく聞こえると思った。
 スーパーで必要なものだけ買ってすぐに帰路につく。部屋に戻ったらすぐに冷蔵庫へと食材を入れた。昼を用意するにはまだいくばか早いので、それまで何もしないでいようと床に寝転がった。簡単に敷けるラグなど良いかもしれないと、微睡みの中で考えた。

 手を振ったきみが笑っていた。それを見て、ワシは動けぬまま。ただ、これできみを解放できてよかったと思う。

 目を覚ませば夕日が部屋に射していた。もうそんな時間なのかと思って、予定が狂ったがまあいいかと夕飯の支度をする。携帯も時計も使えない今のこの部屋ではワシが時間を決める全てだった。誰にも左右されなくて、誰のことを考えないことにホッとする。嘘つきはもう嫌だった。
 そんな時にドアをノックする音がした。居留守を決め込もうと判断し、動きを止めて静かにする。しかしノックは一定間隔で繰り返された。しつこいセールスだなと思いながら、持っていたボウルを台に置いた。
 ノック音が止まった。しばらくの間。
「おい今吉、居んだろ。出ろ。早く出ないと刺す。」
 吃驚して目を見開く。何でだと不思議で仕方がなかった。どうして、何故と脳内で繰り返される。だって自分は誰にもここを話さなかったのに、と。

 だってきみは笑顔で手を振っていたのに。

 座り込んで頭を抱え込む。頼むから来ないでくれと願った。そのまま帰ってほしいと。なんならワシは住居を変えるからと。だけどドアの向こうできみは開けるまで待つだなんて残酷なことを言う。そんなことをしたら風邪をひくんじゃないのかと心配になって、同時にどうして嘘つきなワシに会おうとなんてしたのかと思う。ワシはきみにとてもひどいことをしてきたのに。
 なあ、ときみは言う。知っていたんだと。
「お前が俺のこと好きじゃなかったこと、知ってた。」
 驚いて息を止めた。
「正確には、分からなかったんだって知ってた。そこに漬け込んでたのは俺だ。悪かった。謝る。だから、もう一度。」
 なにを言っているのだと叫びたかった。謝るのはワシの方なのだ。きみの告白を曖昧な気持ちのまま受け取って、恋人になんかなって、楽しい思いまでさせてもらって。ずっと、ワシを好きだと言うきみに、好きだと嘘をついていた。きみがそれを知っていたとしても、何もきみは悪くなくて、悪いのは嘘つきのワシなのに。
 きみはドアの向こうで何度も謝る。一回一回に思いが込められていて、やめてほしいと思った。きみが罪悪感を感じることなんて何も無い。だから、どうか。その言葉を止められるなら。
 震える足で立ち上がって、ドアへと向かい、鍵を外してドアを開く。きみは一瞬だけ嬉しそうな顔をして、すぐに悲痛な顔になった。
「悪かった。」
 止めてほしいのに、喉がひりついて声が出なかった。目が熱くて、きみの両手がワシの顔を輪郭に沿って包み込んだ。見上げた先には痛々しいきみの顔。
「だから、泣くな。」
 それはこっちの台詞なのに、滲む視界が嫌になる。嘘つきはもうやめたいのに。それはだって、ワシときみの為の最善なんだろうに。なのにきみはワシの元の籠の中に戻ろうとなんてする!
「愛してんだよ。誰よりもだ。」
 応えることをもう望まないからと。
「せめて、消えんな。」
 そのまま抱きしめられて、頭を擦り寄せられて、こんなに苦しいことは無いと思った。何か応えてしまえば嘘を重ねることになるのに、それでもその背に掴まることを止められなかった。
「もういちど、こいびとになってくれるん?」
 それはこっち台詞だと。

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