鍾カヴェ/あなたの愛した方式2


 宿は小さな裏道にある処だった。老夫婦が営んでいて、鍾離とは顔見知りらしい。変わっているのは、その老夫婦が揃って岩の神の目を持っていたことだろうか。二人とも首から下げていた。
「一度、試練に遭いましてね」
 老婆はそう微笑む。カーヴェに璃月式の服を貸してくれたのだ。着付けを学びながら、カーヴェはするりと肌触りの良い服を纏う。
「夫婦揃って地の底へ。這い出て、生きてるって分かった瞬間に、この神の目が」
「それは大変でしたね」
「ええ。でも、この神の目があるからこそ、この年でも元気に動き回れるのですよ」
 やんわりと笑って、老婆はカーヴェに鮮やかな赤の羽織を手渡した。
「肌寒かったら羽織っていてくださいな」
「そうします。夜は冷えそうですから」
「そうですね」
 着替えを終えて、居間に戻る。老爺と鍾離がいた。鍾離も老爺から服を貸してもらったらしく、部屋着の装いだ。
「夕飯を作ります。部屋は二階をお好きにどうぞ」
「今日は他の客がいないからのう」
「助かる。行こうか、カーヴェ殿」
「はい」
 カーヴェの手を握って、鍾離は歩く。階段では流石に手を離して、でも上ったらすぐに手を繋いだ。部屋はいくつかあって、その中の一つにはいる。窓を開けて風を通すだけで、部屋の籠った空気は無くなった。よく掃除のされた部屋だった。
「カーヴェ殿、茶でも飲むか」
「はい」
 鍾離が茶を淹れる間に、カーヴェは外を見る。夕暮れとなった璃月港がよく見えた。
「美しいですね」
「そうか」
「人々の活気が違う。スメールとも、モンドとも」
「稲妻はどうだ」
「あそことも、違います」
「璃月は気に入ったか」
「とても素敵な場所だと思います。僕なんかが居ていい場所じゃないぐらいに」
「そんなことはないぞ」
「いえ、僕は、やっぱり、結局は学者だから……」
「璃月も学者を必要としている、としたら?」
「……それでも、僕じゃない」
 カーヴェの言い分に、鍾離は茶を机に置くことで応えた。

 茶を飲みながらゆっくりと話をする。夕飯が出来たら二人で食べて、交代で入浴を済ませる。互いの髪を乾かし合って、ベッドに入った。寝台は広いものがひとつだけだった。
「こちらへおいで」
「でも、」
「俺に貴殿を抱きしめさせてくれないか?」
「なんで、ですか」
「可愛いものを抱いていたいだけさ」
 可愛いって、と呆れた顔をしたつもりだった。鍾離は柔らかく微笑んでいる。カーヴェは恐る恐る、寝台に上がる。そして、鍾離に抱きしめられて横になる。とくん、とくん。心臓の音がした。人の温かさに、カーヴェは泣きたくなった。
「泣いてもいい。誰にも見られない」
「……は、い」
 ぽろぽろと、珠のような涙が頬を伝ってシーツに染み込んだ。

 その夜、鍾離はただカーヴェを抱きしめて、寝た。

 ゆめをみた。カーヴェは夢の中で、男性と会った。それは鍾離によく似ていた。

 目を開く。鍾離の胸元が見える。外から仄かな明かりが射し込んでいる。早朝だ。起きるには早すぎる。だけど、すぐに鍾離は目を開いた。
「おはよう、カーヴェ殿」
「おはようございます、鍾離さん」
 まだ早いな。鍾離はそう言って、カーヴェを抱きしめる腕を強めた。引き寄せられたカーヴェは、寝起き故に力が入らず、くてんとそのまま密着する。いつもより薄い寝間着越しに、体が触れ合っている。温かい。カーヴェはうっとりと目が蕩けた。
 その顔に、鍾離は苦笑して、頬を撫でた。
「こら、あまりそういう顔をしてはいけない」
「あ、ごめんなさい」
「怒っているわけじゃないぞ。あまりに無防備で、たべられてしまう」
「鍾離さんはそんな事しないのに」
「信頼は有難いのだが……」
 では朝食に呼ばれるまでこのまま寝台にいるかと、鍾離はカーヴェを抱き抱えた。

 朝食の支度が整うと、鍾離とカーヴェは身支度をして、食事をした。服も返して、宿を出る。
 璃月の朝、二人で歩く。道中、カーヴェにとっての何でもない話をする。鍾離は興味深そうにそれを聞いてくれて、本当に真剣なものだから、カーヴェは少しだけ困ったのだった。

 璃月の土地を回る。鍾離はついてきてくれた。各地の建築や、風土を記録していく。メラックも用いて、記録を残していく。鍾離はその様子を眩しそうに見ていた。

「カーヴェ殿は仕事が好きなんだな」
「どうしたんですか、藪から棒に」
「いや、改めて思ってな。熱心だなと」
「そうですか? これぐらいは普通です」
「世の中そうでもないぞ。貴殿は貴重だ」
「やめてください。僕は何でもない」
「璃月に来てくれないか」
「僕なんかが居ていい場所じゃない。璃月は、綺麗です」
「スメールはどうなる」
「あそこは、まだ混沌としています」
「どこも変わらないぞ」
「きっと、違います」
「カーヴェ殿」
 鍾離はやんわりと言う。
「いつか、璃月に嫁に来なさい」
「何ですかそれは」
「約束しよう。口約束でいいんだ」
「はあ……?」
 カーヴェは、まあ、口約束なら、と、浅く頷いたのだった。
「璃月に嫁ぐって、まるで璃月そのものを旦那様にするみたいですね」
「嫌か?」
「いいえ、面白いです。僕にはとても、勿体無い」
「だが、それでも璃月は貴殿を求めている」
 鍾離はそっと、カーヴェの手を引く。くんっと体が揺れて、抱きしめられた。焚き染められた香のにおいがした。
「カーヴェ殿」
 顔を上げると、鍾離の唇が振ってくる。顔中にキスを降らせて、最後に、唇と唇が合わさる。柔く揉まれて、薄く口を開くと、ぶあつい舌が入り込む。
 真昼間だ。周囲に誰もいないとはいえ、外で、こんなキスをするなんておかしい。そう思うのに、鍾離の口付けはカーヴェの精神をどろどろと溶かしていく。
「カーヴェ殿」
 低くてすこし掠れた声だ。気持ちいい。カーヴェはぷは、と顔を離した。
「あ、う、しょうり、さん」
「ああ、すまない。少しな」
「ん……」
 とんとんと背中を撫でられる。カーヴェは鍾離の腕の中で、すとんと眠りに落ちた。

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