今日のカーヴェは普段通りに振る舞うものの、確実に辛そうだと皆が察していた。何があったか、助け出した子どもたちにも分からず、ただ、身体に変化があって、髪が一夜にして長く伸びたのだ。動揺しない方がおかしい。不安にもなる。皆の意見は一致していた。
 そんな彼が、居なくなった。最初に気がついたのは、彼の周囲を守るメイドのマルガレーテだ。扉が開いていた。部屋の中にいない。すぐに寝泊まりしていた使用人たちが捜索に当たる。中心となるのは神の目を持つ二人の子どもだ。少年と少女は普段からカーヴェに懐いていて、尚且つ、勘が良かった。少年庭師テルの才能は日々磨かれ、カーヴェの手で開かれた。見習いメイドのカルラの屋敷に入るまでの野原駆け回った年齢に見合わない豊かな経験は、カーヴェの手で花をつけた。どちらも目を凝らす、駆け回る、夜であっても子どもたちは関係なかった。明確な意見を持ち、分からない事は素直に近くの大人に質問し、考える。思考の方法だ。柔軟な脳で、カーヴェがどこにいるかを割り出していく。ディルックもまた、探していた。最初に気がついたのは、子どもたちだ。屋敷の屋根に登り、二人で地平線を眺めるように目を細めていた。いた、と叫んだ。そのまま、ディルックに方角を伝える。
 仕方ないと窓から飛び降りて、走る。白いシーツが見えた。歌が聞こえてくる。風向きが変わる。風で歌が聞こえてきた。震えている。途切れて、詰まって、また歌って。様子がおかしい。
 小さな生き物たちがディルックに駆け寄ってくる。そして、案内するように共に走った。

 近づけば分かる。真っ白なシーツは汚れひとつなく清潔だ。おかしい。彼の精神状態でここまで持ってきたとしたら、こんなに真っ白であるはずがない。振り返る。ルビーの目が見開かれ、そして、歪んだ。近寄り、顔を覗き込む。ぼろぼろと、涙を溢していた。
「ディルック、僕、怖かった、分かんなくて」
 途切れながらに話してくれた内容に、ゾッとする。ここまで一人で来たこと、誰かに白いシーツを後ろから被せられたこと、抱きしめられたこと。相手は声を出すことなく、顔は当然見えず、色もなにも分からないと。それはつまり、彼の心の傷を開いたに他ならない。犯罪だと叫ぶには何もなかった。そう語るが、基準がそもそもおかしい。それだけで恐ろしいものであるはずだ。カーヴェは戦う事ができない。何もできないわけではないが、攻撃はできない。それは、力の無い者への暴力と同じだ。
「怖かった、怖かった……」
 泣いている。ディルックは、言った。
「ごめんね、触るよ」
 そう言って、シーツが掛かったままの頭を撫でる。一度震えたが、すぐに涙が流れる。ぼろぼろと、泣き声を上げる。
 子ども達が走ってくる。大人の使用人も、何人か走ってくる。泣き声と、真っ白いシーツ。異常を誰もが悟った。ディルックはカーヴェの頭を撫でる。ただ、無力であった。

 カーヴェが外に出たことを誰も怒らない。叱らない。そもそも、本来ならば縛られることは無いはずである。
 ただ、何者かがカーヴェに近づいているという危機感が、何も言う事なく、共有された。

 一先ずディルックが、動けないカーヴェを抱き上げて屋敷に戻った。客室に入り、ベッドに座らせる。ひくひくと泣いている。涙は枯れない。怖いと泣くことは悪いことでは無い。大人であっても、怖いものは怖い。辛そうな背中を撫でる。メイドのマルガレーテが水差しや温かいタオルなどを用意した。彼女の手で、水が差し出され、こくこくと飲む。温かいタオルは目元へと当てられた。
 その頃に、ようやく、涙が落ち着いてきた。呼吸も整ってくる。彼の整った指が、タオルを外した。
「何なんだよもう……」
 はあと息と共に声を出していた。もう震えてはいない。たったと軽い足音がした。ノックと共に、子どもたちが入ってくる。二人は言った。
「花の方、元素が足りないんですよね」
「わたしたちの分をおつかいください!」
 は、とディルックもカーヴェも、目を丸くする。子どもたちはカーヴェの両脇によいしょと座る。そして手を握った。カーヴェはぽかんとしている。ディルックとて、その方法をどうやって子どもたちが導き出したのか分からない。
「テル、どうやって流すの?」
「なんかこう、風の流れ。草の根みたいに」
「分からない! 水みたいに?」
「きっとそう」
 二人はどこか、二人だけにしか分からない会話をしている。そして、ふわ、と子どもたちが目を伏せた。カーヴェがゆるりと目を閉じる。ふらつきはない。呼吸は正常である。やがて彼はかくんと正面のディルックに倒れ込む。支えると、穏やかに寝ていた。
 元素が器に注がれた。それでもきっとまだ足りないけれど、表情が明らかに違う。
 そして、二人の子どもたちが言う。
「冷たいですね、カルラ」
「人の手とは思えない! そもそも、生き物ならもっと温かいもん!」
「血が通っていないみたいです」
「こういうの、ええと、透明なガラスみたいだよ」
「花にも似てます。それも、野生では生きられない園芸種です」
 そして、子どもたちがディルックを見上げた。
「旦那様、花の方はたぶん、とても寒いんです。冷えてます。ガラスは透明なのに、触ると冷たい感覚がするので、そう、見た目と温度が全然違うんですっ!」
「旦那様、花の方は周囲の環境に過敏になっています。過敏になっているのに、花のように何も言えないのです。ただ、太陽に向かって、水を吸って、生きるだけ。それは人間ではありません」
 一生懸命に考えて、伝えてくる。ガラスと花。繋がらない筈なのに、何かが引っかかる。
 少年庭師のテルが言った。
「明日、明るい時間に、小さな庭へ行きましょう」
「旦那様と花の方とわたしとテル! わたし、不思議だったんです」
 見習いメイドのカルラは言う。野生の勘だと。
「花の香りがします。あの日、花の方が屋敷に来た日、ですよね。あの、小さな庭を再生したっていう」
「それは、」
「おかしいんです。あの日から屋敷の中に微かな花の匂いがしているんです。花の方からも花の匂いがします。クリームとかじゃなくて、モンドの花じゃない。でも、たったひとつの匂い」
 たったひとつ。ディルックは分からない。カルラは考えている。
「他の国からの行商人が、小さい頃にポプリをくれたんですっ! えっと、あの匂い。なんだっけ、ぱ、ぱら?」
「もしかして、パティサラですか?」
「そうそれ! どんな花?」
「スメールという国で野生に咲く花です。スメールの代表的な花はスメールローズですが、パティサラも充分に……」
 テルがポケットから小さな園芸図鑑を取り出した。使い込んでいる、くたびれたそれを、捲る。これです、とテルが見せてくれた写真に、ディルックは目を見開いた。
「綺麗な花!」
「これ、は」
「旦那様、何かご存知ですか?」
「テル、これは白い色はあるのかい?」
「白? 似たような色はありますが、そんなに白くもないです」
 あの日、吐血した、その鮮血が、小さな庭で、真っ白な花に"変換"された。
「庭を再生した直後に、彼は吐血している。その血が、庭の石畳に落ちたら、白いパティサラになったよ」
「そんな、そんなことは自然じゃありえないです!」
「……おかしいです。えっと、小さな庭の外では決して言わないように言われていて」
「何か知ってるの?!」
「いえ、ただ、花の方はぼくに講義をしてくれるんです。その内容が、ぼくには意図が汲み取れてなくて」
「内容の意図が汲み取れないというのは?」
「小さな庭の大切な秘密みたいです。でも、その重大さを知るには、たくさんの知識が必要だと。でも、だとしたら植物のことだけでいい気がするのです」
 テルは、植物とは全く関係のない講義もあるのだと言外に告げた。頭の良い子である。
 カーヴェは寝ている。穏やかに眠る。


 ディルックはその日、夢を見た。小さな庭に初めて入った幼い日。隣には、青い髪のおとうとがいた。


 翌日。カーヴェが起きるのを三人で待つ。子どもたちは落ち着かず、ずっと二人で喋っている。大きな声ではない。だが、何か、二人にしか通じない言語で喋っているようにすら聞こえた。
「たとえば花があるとして、その花はどこから来たんですか」
「風に乗って種が飛んできたの! でも、古い種が突然芽吹くこともある。あれはどうして?」
「水と気温です。その変化が種を刺激します」
「とーっても古いと、芽吹く種と芽吹かない種があるの。塩水でだいたい分かるわ」
「濃度はどのくらいですか?」
「スプーン二杯。お水は木桶にたっぷり。もう一杯入れてもいいわ。わたしはそうする。だって芽吹く種が分かりやすくなるもの。でもね、結局ぜんぶ撒くのよ。畑には芽吹くもの、その周囲に芽吹かないかもしれないもの」
「世話をするのは畑の中、自然に任せるのが周囲ですね。そうすると、雑草が生える。雑草は強いです」
「雑草なんてものはないわ! 全部名前があるのよ」
「そうですね。せめてモンドの草花を覚えられたら」
「きっと分かるわ。だってとても分かりやすいのよ」
 分かるようで、分からない。互いに言葉を投げかけては受け止めているようで、そうではない。独り言ではないけれど、会話としては不成立である。でも、交流だった。
 ふっと目が開く。ディルックが声をかけた。
「おはよう」
「おはよう、ディルック。テル君とカルラさんも、おはよう」
「おはようございます」
「おはようございますっ!」
 そして、小さな庭に行こうと話がまとまった。
 カーヴェが用意するので子どもたちと退室し、メイドのマルガレーテと交代して、待つ。カーヴェの用意はそうかからなかった。マルガレーテと共に出て来た彼は白いシャツに紺色のスラックス。桜色のカーディガンを羽織っていた。
「行こうか」
「そうだね、二人も」
「はい!」
「はい」
 ディルックとカーヴェと、子どもたち。揃って、小さな庭へと向かった。

 外から見る度に思う。カラフルで楽園のようで、入るのを戸惑う場所だ。その扉をカーヴェが開く。テルが続いて、カルラがゆっくりと入る。ちらりとディルックを見上げた。カルラは感じている。ディルックもまた、一歩入って気がついた。
 元素だ。草元素で満ちている。神の目がびりりと反応するような、錯覚がするほどに。その草元素は、恐らく、カーヴェのものだった。

 小さな庭を進む。中央の石畳。カーヴェが振り返った。
「さて、ここで三人に講義をしよう。簡単なことだよ。たったひとつの質問さ。それでいて、全ては小さな庭の外に一言とて放してはいけない」
 質問である。
「この小さな庭は何が違うかな?」
 その答えは人それぞれである。

 質疑応答はしばらく後らしい。個人で考えること、と言ってカーヴェは歩いて行った。テルはいつものことですと言う。
「質問がまとまったら先生を見つけに行きます。今回は、答えですね。自分なりの」
「花の方は先生と呼んでいいの?!」
「ここではぼくは先生と呼んでます」
「わかるわ。とても物知りだもの!」
 そうして、子どもたちは小さな庭に散らばった。
 ディルックは思い出す。夢を見た。おとうとはこの庭をやけに気に入っていた。庭師たちに止められていても入ったのは、おとうとが来たがったからだ。
 なぜ、あんなにも気に入っていたのか。ディルックは気になった。今思うと、あの執着はおとうとらしくない。今なら、まあ、おとうとらしいが、当時の小さなおとうとらしくない。
 でも、だとして。何があるというのか。
 歩く。幼い頃のことを思い出す。あの頃よりずっと華やかな庭である。息苦しいほどの草元素で満ちている。確かにここは、楽園である。
 ふっと咲く花たちを見る。見たことがあるようで、無いような花たちだ。季節がバラバラである。この庭に明確な季節は存在しないらしい。どうしてだろうか。そして、花々は、そう、見た事がある面影がある。
 古代種だ。
 古代種ばかりが目に止まる。そればかりだ。全ての花が古代種だ。普通は現代に咲くことは叶わないのではないか。もしくは厳密に管理された人工の下でしか咲かないのではないか。だとすると、なぜ。目の前で咲いているのか。
 歩く。花々を見る。古代種の中にたったひとつ、知っている花があった。少年庭師テルの、使い込んだ小さな植物図鑑の写真。
 青紫のパティサラが、咲いていた。

 カーヴェの元に向かう。彼は中央の石畳の上に立っていた。各方向から子どもたちも駆けてくる。カーヴェはそれぞれを見た。
「同時かな。では、それぞれ自分なりの回答を告げてほしい。この回答には明確な答えが存在しない。よって、ここで行うのは計四人による討論である。何も難しく考えなくていいよ。自分の言葉で話してごらん」
 視線を交わす。最初に発言したのは見習いメイドのカルラだ。
「この庭、シールドが張ってあります! だから、草元素がこの中から出て行かずに、充満してます。このシールドを眺めていたんですが、透明で、ガラスみたい。柵の隙間から手を伸ばしてみたら、硬かったです。でも、小石を投げたら通り抜けました!」
「シールドなんてあるんですか? ぼくには分からなかったです」
「普通は攻撃を通さない為に張るものだよ。庭に、わざわざかけるものではないね」
「だとしたら、外からの攻撃を防ぐということですか?」
「中から小石が通るなら、内側からの攻撃は届くのかもしれない。でも、カルラの手は内側から通らなかったとすると……」
「そもそも、この庭、静かではありませんか?」
「わかる! 水の音も、虫の声もしない。風が感じられるのに、風の音もしない」
「虫といえば、小さな虫すら見かけないです。蝶々もいないので、受粉とかそういった活動が全く無いです」
「……全ての生き物を通さないのかな」
 ディルックの発言に、カルラは頷いた。
「だとしたら、この庭のシールドは生き物を通さないものです! だったら、小石は通るので!」
「水はどこにありますか? それならシールドを通るはず」
「そもそも水の音がしないわ」
「水源が見当たらないね」
「植物の種が芽吹くには、水と温度の変化が必要なのよね、テル」
「はい。だったらこの庭はどちらも見当たらないです。水は周囲にないし、温度は一定です」
「というか、これは旦那様に聞きたいのですが」
「どうしたんだい、カルラ」
「ここ、何処ですか?」
 カルラは言う。
「モンドの風ではある。でも、周囲は森に囲まれてて、何処とも道が繋がってないです。木々はモンドの自然と同じです。時間も屋敷と同じ。だから、ここはモンドだけれど、こんな場所がありますか?」
「屋敷からは離れているね。あの窓のない廊下がショートカットになっているとは聞いた事があるよ。だから距離が本来ならある」
「だったら、なんでわざわざそんな廊下をお屋敷で作ったのですか? わたし、それなら普通は諦める筈だと思うのですが」
 昔の話だ。それはディルックが知らない話。
「分からないな……」
「この場所でなければならなかったのかもしれません」
「場所が決まってた? 庭の? この小さな庭の場所が?」
「ぼくはシールドに詳しくないのですが、それって、こうも長期間続くものなんですか?」
「一定の時間で効果が切れるよ」
「じゃあ何度も張り続けてるってことですか?! どうやって」
 それは、とても。
「機械的な……?」
 その時の回想とは記憶である。

「彼は庭師ではないけれど、表向きは庭師としてこの屋敷にやってきた」

「庭は再生する」

「少なくとも"稼働"はする」

「この庭は貴重なもの。とても価値が高い。だから、庭師の口伝えだけで秘密が守られてきた。屋敷の主人にも告げられない」

「長く勤める庭師を一人。語り部は一人で充分」

「彼がこの庭を再生させた際の異常な量の元素量」

「吐血した血が、石畳の上で白いパティサラに"変換"された。おそらくは、草元素だから」

「彼の本職」

「医者曰く、風元素では不可能である」

 そして。
「ここに咲いてる花は古代種ばかりだけど、パティサラだけは違うね」
「パティサラがあったんですか?! わたし、全部見たことがあるようでない植物ばっかりで、ビックリしてました!」
「はい。古代種ばかりです。花だけじゃない。低木も。蔦も。全ての植物が。パティサラは見つけてませんでした。だったらどうして、それだけがあるのでしょうか?」
 ここで、三人でカーヴェを見る。

[newpage]


 カーヴェは静かに聞いていた。よって、口を開く。
「疑問、違い、異常。全てが、間違いないよ。どれも正確な指摘だね」
 そして、言うのだ。
「僕の目的と正体を言おう」
 彼はかつんと石畳を踵で叩いた。
「僕はカーヴェ。スメールの教令院、妙論派の栄誉卒業生にして、建築デザイナー。人はこう呼ぶ。妙論派の星と」
 かつん。
「さて、ここで教令院の学派について概略を。各学派はそれぞれ学ぶこと、研究する事が大まかに分かれている」
 かつん。
「植物に関わることは生論派になる。植物学者も医者も、生論派からしか生まれないとも言える」
 かつん。
「僕は妙論派だ。生論派の友人は居るし、まあ建築デザイナーとして植物を扱うこともあるから、全く知らないわけじゃないけれど。ただし、決して、庭師は妙論派から生まれない」
 かつん。
「僕は庭師として依頼された。表向きはね」
 かつん。
「妙論派とは、建築学と、機関学の学派だ」
 かつん。
「僕は妙論派の学者の同期から依頼を受け渡された」
 かつん。
「この庭に関わるのは機関学だ」
 かつん。
「この石畳の真下、地中奥深く。そこに、一つの旧式機械がある。それも、元素をエネルギーに稼働する。また、一度エネルギーを完全に充填すれば、数年度どころか、何代も稼働を続ける」
 かつん。
「勿論それはつまりこの旧式機械が、アンティークであり、とても古く、学術的価値と骨董価値が高いものと推定される」
 かつん。
「僕はこの器の大きさから、その元素を注ぐように依頼された。この旧式機械は草元素をエネルギーにしていたんだ。このことはここで機械を調べてみてから知ったけれど」
 かつん。
「つまり、この庭はそもそも、その旧式機械が埋まっていたから作られた。そして、旧式機械の効果の中に植物の開花と継続、生き物の遮断というシールドがあるようだね」
 かつん。
「旧式機械の性質からしてスメールかフォンティーヌにあるのが道理が通るけれど、ここはモンドだね。その理由は分からない」
 かつん。
「だいたい、そんな旧式機械は、一重に旧式と言っていいものかな?」
 かつん。
「これは何代も繰り返し使える。百年は軽く越える。劣化は無い。だとしたら、これは」
 かつん。
「とんでもないオーバーテクノロジー。オーパーツ。想定される作成時代には明らかに合わない人工物だ」
 ここは。
「機械が埋められ、稼働した瞬間から、異常な土地だ。人工的に、意図的に、恣意的に、作られた。小さな花園。こういうのを夢見た古代の人は、楽園と呼ぶのかもしれないね」

 古代種の植物ばかりなのは、同時から植物が入れ替わっていないから。
 この場所が不明瞭なのは、そもそも二次元上の地図では存在しない場所の可能性が高い。
 水源も温度も、全ては機械で管理されているため、この場所の植物が存在するために必要ない。
「まだ調べ足りないから、調査するつもりだったんだ。まあ、元素が不足してしまって、それどころでは無くなってしまったのだけれど」
「元素とは不足するものかな?」
「普通は不足しないらしいね。僕は、元素の最大容量が大きい代わりに、自然回復が遅いというか。僕自身のスキルの規模と発動の速度では、とても追いつかないようだよ」
「吐血したんですよね?! それって、体を傷つけてる。だったら、このままの使い方では死んでしまいますっ!!」
「そう。だから、医者には倒れる度に世話になるよ。または、親切な友人たちが僕自身が把握しきれていない僕の元素量を察して、無理矢理休息させたりする。休息というか、つまり元素を使わないで生活するということだけれど」
「普通の人は元素を使いません。ほぼ、間違いなく。神の目を持たない人も生きてるので。だったら、起きて歩くことさえできれば、生活だけならできますね」
「その通り。だからそう難しい話じゃないのだけど、僕はすぐに元素を使ってしまうから。悪癖だね」
「生き急ぎ、だったかな」
「そう。生き急いでるとか、死にたがりとか、自分を犠牲にしているとか、その辺りをよく言われるよ。そういうつもりは無いのだけど」
 そこでそろりと見習いメイドのカルラが言った。
「あの、きょうれいいんって何ですか?」
「簡単に言うと、とても頭の良い学校かな」
「じゃあすっごく頭が良いじゃないですか!!」
「そうなるよ。嘘をついたつもりは無いけど、何かと騒がれるから黙ってる事が多いね。ごめんね」
「うわーん! 教えるのが上手なはずですよお!」
「ははは」
「もしかして本当に先生をしていたんですか?」
「うん。教令院の教壇に立ったこともあるよ。選択科目だったかな。最近はさっぱりだけど」
「だから講義だったんですね……」
「その頃の癖だね」
「じゃあもし正式に家庭教師とか依頼したらどうなるんだろう」
「金額は考えない方がいいね。まあ、貴族とかのご令嬢とか、ご子息相手にはなるかな。意欲のない生徒に教えるのは、こう、無駄な話に繋がるから、受けないのだけど」
「濁したね」
「わたし一般人ですよ?! 字も数字も怪しい!!」
「ぼくもただの庭師です」
「君たちは大変優秀な生徒だよ。僕は教えていてとても楽しいな」
「そうじゃないですよね?! ぜったいに、わたしって!! わー!」
「ぼくとは」
「二人とも落ち着いてね」
 カーヴェは微笑む。
「妙論派の星と呼ばれるのは、学派の中でも妙論派の立場が弱小であり、僕が居なければ学派の取り潰しも行われていたらしい。まあ、結局、僕が居たから学派は継続してるね。今でも立場は弱いけれど」
「何をしたんだい?」
「スメールで有名な建築をデザインした。その結果、莫大な資金が学派に入った。僕の懐には訳あって入らなかったけど、楽しい仕事だったから。基本的に僕は生活に根差した、実用的でありつつ、美しさも同時に備えた建築デザインをしたい。土地の情報、製図、建築現場、その建物が完成するまで。基本的には、その全てに関わることにしている。普通の建築家はそこまでしないね。僕はどこかで誰かが怪我したりとか、実用性が失われたりとか、そういうことが嫌だから全てに関わるのだけど」
「……それって、何を、どのくらい、学ぶことになるのかな」
「さあ? 僕は昔から天才呼ばわりされていて、どうにも常人とは違うらしい。そんなつもりは無いんだけれど。まあ、天才と呼ばれるのは好きじゃない」
「人助けとお人好し、だったね」
「うん。助けを求める人に手を貸したい。何も返ってこなくても、ただ幸いであればいい。地位とかお金とか名声とか、そういうものは建築デザインに必要では無いからね。入ったお金はすぐに助けを求める人に還元してしまうから、破産してるし、借金もしてる。ろくでなしだよ」
「ろくでなしってそういうものでしたっけ……?」
「お酒飲んで暴れたりとかですか?」
「お酒は好きだよ。仕事で他の土地に来てる時はあまり飲まないし、そもそも弱いからすぐに酔ってしまう。だいたい酒場で潰れて、友人や後輩に介護されてる。スメールシティの酒場では大体話が通ってる。あまり良い話ではないね。悪い大人だ」
「あ、お酒自体は好きなんだね」
「うん。ここの名前を聞いた時も、ワイナリーとはどんなところかなって思ったよ。というか、生論派の研究分野になるのかなとかとは、依頼を渡してくれた同期と話したりしたね」
「生論派ってやつになるんですか?」
「多分。根本的には植物の話になると思うし。妙論派ではないことは確かだと思う」

 そういえば、とカーヴェは言った。

「最初に先代の老庭師のシロサギさん……風の神の目を持つ人だね。その人に言われたんだ。僕から花の香りがするって」
 おかしな話だと、カーヴェは長い金髪を揺らした。
「そもそも僕にそんな体質は無いはずだ。僕自身は聞いた事がない。鼻の良い友人もそんな事は言ったことないし。医者もそうだった。花の香りがするって。てっきり、この庭を再生した時に、何らかの反応で花の香りがするようになったのかと思ったけど。シロサギさんは、それどころか、僕がこの庭に入る前から花の香りがするって言っていたような」
 というか。
「そもそも、秘匿された依頼は多いけれど、だとしてもこの依頼はスメールシティを管理していると言っても過言では無い教令院にすら話が通ってない。同期は弱小学派である妙論派の研究者になるけど、教令院に所属しているから、書類の提出を逃れることはほぼ不可能だ。でも、それをパスしてる」
 でありつつ。
「書類が既に作られていたんだ。依頼書と契約書。もちろん、シロサギさんのサインは既に入っていた。同期は、他の工場に頼むとか何とか言ってたけど、この規模の機械に草元素を流し込む、ということがもし庭師に伝わっていたら。それは、ありえない想定であり、むしろ、」
 それは。

「僕にしか達成できない依頼だ」

 その言葉に、ぞわりとした。子どもたちも神妙な顔をする。
「変な話です。もう分かってたのなら、最初から指定するべきですよ。だって、うーん、獲物が分かっている狩りには、最適な道具を用意した方が、ずっと早いし、材料に無駄がない」
「ええと、シロサギさんをぼくは知らなくて。で、シロサギさんはぼくと同じ風元素で。でも、ぼくは花の香りって人から感じたことはないですね。それこそ、先生の場合はその機械の影響で匂いがついてる方が自然だと思います。じゃあ、シロサギさんは何で花の匂いを感じたんですか?」
「目が悪い、だったかな。五感がどうのって医者との会話で言ってたね」
「あ、うん。シロサギさんは目が悪いって言ってたよ。いや、違う。言ってはない。目が悪そうにはしていた。でも、足取りはしっかりしてて、元素はよく感じてたみたいで。あとは、最初に、僕のことを、花のようなお人だねって言ったんだ」
「それはどうやって判断したんだろう」
「花の香りとはその後に言ってたよ。豊かな香りがする。葡萄酒より香り高い。そもそも、比べるべきではない。果物と花では違いすぎる。あなたは実を結ぶ前の華やかで鮮やかなおひとだ、と。ワイナリーだから葡萄酒で、果物なのかと思ったけど、なんか変だな」
「果物と花は確かに違いますね。果物は花の後に、実を結ぶというか、花に受粉して、その根本とかが膨らんで実になる。それは可食より、種を残すものです」
「葡萄酒ってワインですよね? なんでワイナリーに勤めてた庭師がそんなことを言うんですか? いくら褒めたとしても、へんです!」
「華やかで鮮やか、とは、目が見えているようだけれど」
「三人の指摘は尤もだと思うよ。あと、僕のことを金色の長い髪と、赤い目に見えるって。色ぐらいしか分からないと言ってたし、髪は確かにその時から男性にしては長めではあったけれど、長い髪って、今の長さぐらいが一番分かりやすいような」
 さら、とカーヴェが自分の、一夜にして長くなった髪を触る。そこでカルラが言った。
「花の、と屋敷の人間で最初に言い出したのはシロサギさんなんですか?」
「そうだね」
「で、髪が長いって言ったんですよね?」
「うん」
「それで、実を結ぶ前の花……果物は可食より、種を残すもの? それって」
 見習いメイドのカルラは恐ろしいと腕をさする。
「まるで、花嫁さんです」
 静寂。カルラは続ける。
「葡萄酒は祝い事で飲みます。祝い事の際たるものが結婚です。花嫁が一番美しく飾られる時です。花嫁は基本的に嫁入りです。他の家からもらってくる。それは、先生によく似ている」
「待って、カルラそれって僕は、」
「シロサギさんは先生のことを、男性と言いましたか?」
「……言ってない。僕が成人男性と言っても、何も、むしろ、はぐらかしていた」
「嫁入りした娘の役割は家庭の仕事ですが、尤も必要な役割は子を授かること、産むことです。それは庭師が種を残すと同じです!」
「いや、待って待って、僕は男性だよ?!」
「だからありえない、おかしい話なんです! 花なんて呼び方は、確かに儚いとかそう言う例えにもなりますが、基本的には女性につけるものですよ?!」
「一旦落ち着こう。え、僕を指定して、嫁入り? 花嫁? 誰に?」
「相手は分かりません。シロサギさんは言っていましたか?」
「何も言ってなかった」
「あの、ぼくはその手のことに詳しくないのですが、というかとてもデリケートな話をしてるなと思ってるんですけど、ええと、普通はこの屋敷で嫁入りの話になるなら、旦那様の花嫁では?」
「無理に話さなくていいよ。ただ、その指摘に関しては、シロサギさんはむしろ、屋敷には庭への通路がある、程度にしか言わなかったんだ。ディルックのことは何ひとつ、言わなかった」
「じゃあ誰に対しての花嫁なんですか?!」
「それが分からないね?! え、ちょっと待って。実際に僕はあの秘境っぽい廃墟で幼い女の子に変化したし、戻ってきても髪が伸びたままだった」
「いやそんな事になってたのかい? 子どもたちはよく助けたね」
「旅人とタルタリヤ君とパイモンが基本的に抱っこして移動と戦闘をしてたね。ただ、あの秘境っぽい廃墟はあの二人では解けなかったみたいだ。僕も脳内で図面を引くように考えて、あと空間の接続に法則があると分かったから二人に指示したんだ。だから、二人だけだったら、そもそも出られなかった可能性が高くて」
「んん?」
「あのお二方は旅人さんとタルタリヤさんというんですね!」
「強そうですね。でも、最後の仕掛けは子どもにしか破壊できなかったです。ぼくらだから壊せたのであって、ん?」
 ディルックはちょっと待ってと言った。
「旅人とタルタリヤとパイモンがいたんだね?」
「うん。幼い女の子になってた僕を見つけてくれたし、運んでくれた。いや強いね。初めて戦ってるところを見たけれど」
「戦闘に関してはそれはトップクラスだろうけれど、いやタルタリヤについての話は聞いたかい?」
「何も。え、事情があるのかな?」
「何も言わないでおくよ。で、子どもにしか壊せない仕掛けとはなんだい?」
「糸車でしたね」
「はい! 先生が子ども用だから変だなとかなんとか。なんか七歳とか言ってましたね?」
「うん。七歳までは神の内。稲妻の古い言葉だね。各地に同じような言葉はある。子どもの頃にしか辿り着けない場所とか、子どもの頃にしか見えない妖精とか」
「子どもなのかい?」
「糸車は基本的に乙女というか女性の仕事だから、子ども用なんて存在したかなとは思ったね。で、七歳に満たないであろうその時の僕の姿ではどうしても壊せなかったかなとか。旅人とタルタリヤ君は子どもではないから壊せない」
「じゃあ、あなたがその秘境の中で成長したら?」
「壊せたかもしれない。でも、時間は止まってたような」
 そこで少年庭師のテルが言う。
「本当に疎いのですが、花嫁の色とかあるんですか?」
「基本的には決まってます! まあ、村とかで違いは出るのですが」
「色は何ですか?」
「え、白です。真っ白。純潔のおとめ。処女の色です。そこに花飾りを飾ります。季節の花ですね」
「しょっ、えっと、そのまま言いますね……いやいいですけど、とにかく、白なんですね」
「はい。そうですけど」
「あの廃墟の時の先生、白くなかったですか? 全体的に、服装が」
「そういえば、白いシャツと白いシーツだったね。ワンピースみたいな状態だったよ」
「花嫁では?」
「……うん」
「……思い出したくないだろうけれど、先日の不審者の件でも、白いシーツだったね」
「だったね」
 つまり。
「それは同一犯でいいですか?? わたしちょっと怒りが」
「あの、同一犯かは分からないですけど、あの廃墟にはどうやって連れて行かれたんですか?」
「いつの間にか寝てて、旅人とタルタリヤ君とパイモンに起こされたね。そしたら体が変わってた。夢だと思いたかった」
「いや、それはどうやって移動したんですか?」
「夢だなと、なんか、体が揺れてたような。お酒は飲んでないよ。ええと、誰かに運ばれたような。そういえば花の匂いがした。花の匂いが混じってて、一番最初に懐かしい匂いがしたね」
「パティサラ、とかかな」
「それだ! それだね? いや、えっ、」
「なんで先生を運んだ上に体を幼女に作り替えて白いシャツだけにして白いシーツを被せたんですか? しかもそれ香水がパティサラとか花の香りで調合されてたということですよねわたしちょっと怒りが収まらないんですけど」
「僕も怖いんだけど」
「あの、二人とも落ち着いてください。先生自体はメイドのマルガレーテさんでも運べるので、犯人像はまだ分からないです」
「僕、マルガレーテさんでも運べるのかい?」
「軽いよね」
「気にしてるから言わないでほしいな」
 夢。
「そういえば僕と話した際に夢を見たとか言ってなかったかな。モンドの」
「そうだった! ここに来る前に夢を見たんだ。ええと、まず、古本市で童話らしきものを一冊買ったんだ。タイトルは擦り切れてて読めなかったんだけど、内容が面白そうだったから買ったよ。普段そういうものは買わないのだけど」
「どういう内容ですか? わたしけっこう童話はお婆ちゃんたちから聞きました! わかるかもしれません!」
「えっと、いたっ」
「大丈夫かい?」
「いや、頭痛がする。えっと、痛いな……記憶が霞んでて、記憶力は良い方なんだけど」
「それはそうですよね。学歴からして」
「痛いんですか?! え、無理はしないでくださいっ」
「以前の時も結構激しい頭痛に見えたけれど」
「うん。同じ……同じだね?!」
「その時は本の内容ではなくて、夢の内容を話していたような気がするよ」
「そう、だったかな。ごめん、スメールの大人は訳あって夢を見てなかったから、僕は夢に慣れてなくて」
「夢の内容は覚えてなくても普通ですよね。スメールでは違うんですか?」
「僕は蚊帳の外だったから、よく知らないけど、突然、夢を見るようになったんだ。だから、夢の内容も忘れたことは殆どないような気がして」
「本の内容と、夢の内容なんですよね。痛いのって。じゃあ、それってどっちかというと、誰かに呪われてる方が分かりやすいような気がします。わたしはそういうの詳しくないんですけど」
「僕には基本的に呪いの類は効かないんだけどなあ」
「……神はどうだろう?」
「神?! いや、それは、確かに出来るかもしれない。試したことはないけれど」
「そうそう神様なんてお目にかかりませんが?!」
「僕は見ないよ。後輩と友人たちは会えるんじゃないかな」
「ごめん、今更だけど、後輩と友人たちって誰かな。旅人の仲間とか?」
「うん。後輩はアルハイゼン。友人は、ティナリとセノだね。アルハイゼンとセノは学生時代から知ってるし、ティナリは卒業後から知ってる。四人で食事したりするね。あー、あとアルハイゼンはルームメイト」
「えっ、先生が、人と住んでるんですか?」
「うん。訳あって、破産したり、借金してる僕の経済面はわりとアルハイゼン持ちだね。家はそもそもアルハイゼンのもので、まあ、元を辿ると僕のものにもなるからかなり広い家にはなる。だから、部屋はいくつか個人で持ってるかな。で、そこに住んでフリーランスで仕事しながら、家事とかの細々としたことは僕の担当になってる。アルハイゼンは教令院で書記官してるから、仕事にしては高給取りではあるね」
「何一つ分からないんですけど、アルハイゼンさんとは何者ですか?」
「後輩だね。個人主義で、知論派の卒業生。人間として妙なところで抜けてるから、あっちもろくでなしだと思うよ」
「何で一緒に住んでるんですか? わたしよく分からなくて」
「僕も流れで一緒に住んでるとしか。まあ、顔を合わせたら口論と討論になるけど、スメールの学者たちは大体そうだから特に気にしないね。学生もどこでも何かしら話し合ってるし」
「わたし、わからないです」
「お国柄としか……。あとアルハイゼンは僕の父親みたいなことをよくしてる。恋愛沙汰では、人の心がない言葉で暴力を使うことなく心を折り、実力行使してきた人間には遠慮なく蹴りを入れる。昔からそうなんだ。個人主義というか、マイルールがあって、それに従ってるから、他人のこととか知らないし、社会的な体裁も気にしないし。僕と話すことに関しては、アルハイゼンも天才と呼ばれてたというか。同レベルで討論できる人間は、僕にもあいつにもお互いぐらいしかいなかったから。いや、話が本当に合わないから、討論は長くなるよ。酒場で殴り合いの喧嘩になったこともあったね」
「先生、殴り合いの喧嘩とかできるんですか?!」
「いや、僕は基本的に暴力は振るわないけど、討論であいつとは本当に合わないんだ。あと、僕も一応、神の目はあるからね。武器は持てないけど」
「え、先生は武器を持てないんですか」
「うん。サポート専門かな」
「恋愛沙汰ってなんですか!」
「いや君たちに話すのはちょっと」
「わたし、分かりました」
「ぼくは分かりたくないです」
「で、ディルックは皆と知り合い?」
 ディルックは遠い目をした。
「まあ、見かけたことはあるかな」
「ああ、そうなんだね。変な後輩と、善人のティナリと、大マハマトラのセノだよ」
「大マハマトラってなんですか?」
「警察、みたいな? こっちも詳しいことは君たちに話したくないかな。兎に角、間違えた人を罰する役目のトップになるね」
「で、その三人はスメールの神と会えるのかな」
「うん。色々あったみたいだよ」
「じゃあ、その神様が先生を呪ったとか?」
「それは分からないかな。僕は神様に会ったことないし、何も知らない。三人とも、特に話さないし」
「でも、先生を呪えるとしたら、その、神様とかになるんですか?」
「試したことがないから何とも」
「そもそも試したら記憶を消されそうまであるね」
「物騒だな。え、神様ってそういうものなのかい?」
「いや、あまり詳しくは言わないけれど」
「とりあえず、本の内容と夢の内容が、頭痛と、かすみ、で思い出せないんですね」
「うん」
「何かありますよね」
「たぶん?」
「本の内容、頑張ってみますか? えっと、単語だけでも……」
 無理はしないでくださいと言う見習いメイドのカルラに、カーヴェはううむと唸る。
「えっとあの時は村に行って、コレイに勉強を教えてて。それで、その後、コレイが寝てしまって。上着を掴んでたから離すのが可哀想で、だったら本を読もうかなって。その時にその、古い本を持ってきてたんだ」
「わたし、だいたいのことはスルーしますね」
「で、その本のタイトルをティナリに聞かれて、擦り切れてて読めないって話をして。で、じゃあ内容はって、最初の数ページはもう読んでたんだ。それで購入しようと思ったんだけど」
 そう、とカーヴェは言う。
「"夢をみる花の話"だった」
 カーヴェはぼうっとしている。
「気がついたら、白い花畑にいたんだ。上空をチョウが飛んでたけど、チョウは近寄ることを許されてなくて。聖域? 深い森の奥で。白い花の群生地だった。群生じゃないな、種類はたくさんあった。風が吹いてた」
 カーヴェは夢を語る。視線がうつろだ。
「白い服を着てた。白いシーツを肩にかけてて、シーツが花の上に落ちても、花はびくともしなかった。暑くも寒くもなくて、でも晴れてた」
 あれは。
「僕の名前はカーヴェだ。森の中にぽっかりと空洞が開いてるような場所で、白い花畑だった。古代種ばかりで、でも、どれも白い花ではなかった筈なんだ。あと、古代種の中に、白いパティサラだけは古代種じゃないなと思ったね。あんなに白いパティサラなんて無いと思うんだけど。まるで漂白したような白だよ。ありえない」
 くるくると語る。
「花畑の外には出られなかった。透明なガラスのようなものがあったんだ。髪がふともも辺りまで伸びてて、驚いたよ。変なのって。夢なのに、妙に実体感があったというか」
 夢をよく知らないけれど。
「長い夢だったよ。何回も太陽と月を見て、数えるのはやめた。時間の感覚を持ってしまうと、狂ってしまいそうでね。あと体は変わらなかったというか、清潔なままだったし、お腹は減らなかったし、老いることもなかった」
 そうして。
「神の目を持ってなかったのに、草元素を操れたんだ。動物も、魔物も、虫もいない。白い花と僕だけ」
 ああ。
「空の果てで、戦火が上がった。その方向だけ、空が赤く染まるんだ。とにかく、誰も命を落とさないように、怪我しないようにと願うしかなかった」
 それから。
「幾星霜と過ぎて。たまに寝て、起きて、暇つぶしに草元素で花を編むんだ。白い花を作っては白い花畑に落とす。それだけ。夢が終わらないなあって思った」
 暇。
「少年が森から来たけど、声が聞こえなかった。少年は花畑には入れなかったんだ」
 また、長い時が過ぎて。
「小さな、男の子が走ってきた。森の中から、泣きそうな顔で、走ってきた。七歳より前かな。座ってる僕に飛び込んできて、言ったんだ」
 それは。
「『おかあさん』って」
 ひゅっとカルラが息を呑む。カーヴェはぼうっとしている。
「僕はちゃんと男性だって言ったけど、その子どもは、僕をおかあさんって呼びたがった。髪が長いからとか言ってた。あと、歌が歌えるかって。歌ったよ」
 カーヴェは歌う。古代語の歌。一部だけ歌う。意味は分からない。だが、ディルックが何度か彼の口から聴いた歌だった。カルラとテルは聞いたことがないと眉を寄せた。不思議な、懐かしい歌に聞こえる。
「やっぱりおかあさんだって。まあ子どもだからいっかと呼ぶのを許したよ。子どもの名前は……思い出せない」
 カーヴェはやや痛みを覚えたようだが、またすぐに虚ろな目になる。
「初めて来たと子どもがはしゃいで、歌う意外に何ができるかって聞かれたから、花を出せるよって、白いパティサラを出して渡した」
 白いパティサラ。存在しない花だ。
「子どもは両親とか家族とか、何も教えてくれなくて、おかあさんがいるからいいって。子どもはすごいね。それで話を押し通すから」
 懐かしむようだ。
「夕方になるから帰らなくていいのかって聞いて、おかあさんはここにいるかって聞かれて、たぶんきっとしばらくって答えた。その日はそれだけ」
 続く。
「週に一回、子どもは来たよ。歌を歌ったり、花を咲かせたり、童話を語った。僕は各国の童話を郷土を調べる際に少しだけ知ってたから、それを話したね」
 それだけ?
「ある日、子どもは誰かと喧嘩したみたいだ。僕のことを人に話したら、変だって言われたって。そういう、喧嘩とかするようには思えなかったから驚いたし、まあ、実際白い花畑にいる白い服の男性って変だし。だから、慣れ過ぎたねって言った。子どもは成長していった。夢の中なのにね。ただ、子どもがそろそろ七歳になるなと思った」
 七歳。
「七つまでは神の内だから。だから、子どもは花畑に入って来れた。少年は、七歳より大きかったから、入れなかった。たぶん」
 神の内。
「子どもには、子どもが好き好んでたら白いパティサラの花冠を作って乗せた。で、僕のことはあまり人に言わなくていいって伝えた。いつか忘れるだろうから。忘却とは全ての生き物に等しい。脳を持つ者達は必ず忘れる。それが、思考の整理だ」
 忘却。脳を持つ者達。
「それからも子どもは週に一回来て、一緒にいた。そろそろ七歳かなって頃に、旅行に行くって。お土産はいらないよって答えた。ただ、息災であればいいと伝えたよ。そしたら子どもは、何だったかな、流れで言ってた」
 言う。
「おかあさんはおよめさんになってくれる?って」
 カルラもテルも真剣な顔をしていた。
「同性では結婚できないことを伝えた。でも、子どもは、結婚は大好きなひととするんだって。まあそうだけど、そうじゃない。だって、無理はものは無理だよ」
 ただ、約束されたと。
「約束って左手薬指を触ってた。子どもだなあって」
 それから。
「しばらく、子どもは来なかった。まあ、旅行中にでも誕生日を迎えたんだろうね。七歳を越えたら、来る場所じゃない。会えるものでもない」
 神?
「暇には慣れてた。夢の中だし。たまに眠って、起きて、花を咲かせて、歌って。平和だよ。とても」
 それは本当に平和なのか。
「ある日、子どもが森からやってきた。あの時の子どもが十歳ぐらいになってたね。当然、花畑に入って来れない。驚いていたし、悲しそうだった。ガラスの壁を叩いてたから、手を痛めるだろうって、近寄った。まあ、ガラス越しだし、声は届かないよ」
 ただ。
「怪我をするよ、ってゆっくりと言った。読唇術があれば話せただろうけど、まあ十歳ぐらいの子どもは獲得してない。泣きそうな顔をしてたね。子どもが泣く顔はあまり良いものじゃない。だから、手を壁に当てて、困った顔をするしかなくて。子ども恐る恐る、手のあるところに手を重ねてた。ガラス越し。体温はないよ」
 それは、何だろう。
「子どもは森の外から呼ばれたみたいで、まあ心残りがあるという顔をしてたけど、僕は壁から離れて手を振った。まあ、表情を切り替えて、子どもは森へと消えた。子どもの成長ってああいうものなのかな。僕は、家族というものが縁遠いものだったから、子どもの成長なんて分からなかった。まあ、子どもはすぐに成長するものだしと、気にせずまた花畑でしばらく過ごした」
 家族。
「ただ、夢って、長いね」
 夢と認識している。
「しばらくして、星空を見てた。その時は夜だったね。誰かが森からやってきた。少年だった。あの子どもがまた、成長してたんだ。十代ではあると思う。その服装がなんか豪華で、そう、モンド式だなと思った。だから、夢の場所はモンドだって分かったんだ」
 モンド式。
「すごく顔色が悪いというか、空気が重くて。壁に手を当ててたから、辛そうだったから、壁まで近寄って、壁に手を当てた。重なるように。まあ、温度はないよ。壁があるから」
 壁越し。
「そうしたら、子どもがゆっくりとおかあさんって言った。声は聞こえなかったけど、読唇術で読めたんだ。だから、こんばんはってゆっくり言った。子どもも読めたみたいだった」
 久しぶりだろうに。
「少し読唇術で話した。どういう会話だったかな。ただ、どうして来れなくなったんだろうみたいなことを子どもが言ったから。まあ、子どもじゃなくなったのかもねって言った。悲しそうというか、切なそうというか。こちらとしては、苦笑するしかないよね」
 子どもは、成長するものだから?
「七歳までは神の内。そう言ったけど、分からなかったみたいだね。稲妻の言葉だし、幼い頃に伝えたけど、忘れてたんだろう。そういうものさ」
 忘却と成長と、時の流れ。
「だから、子どもだけが見る夢だよって言った。分かりやすいだろう。実際に夢だし。ただ、子どもはひどく傷ついた顔をしてた。泣きそうになってた。いくら少年まで成長してても、僕は幼い頃から子どもを見ていたし、泣かれると心は痛む。人の心があるからね」
 夢を、認識している。
「もう一度、お母さんと会えるかって。何度も繰り返してた。必死だったね。しばらく来れなかったみたいだし、実際に最後かもしれないと思った。だから、白いパティサラを草元素で編んだよ。その子どもが好きな花だから」
 壁は。
「花は壁を通った。子どもは珍しく動揺して、ゆっくひと受け取ってた。で、今度こそ泣いてたね。そこまでダメージがあったのか、って苦笑したよ」
 それは、そうだろうに。
「泣かないで、いつか忘れるからって。言った。子どもは嫌だと頭を横に振ってたよ。ああ、成長しても子どもだなあと思った。小さな頃と同じだ。まあ、微笑ましく笑ってはられないけど。子どもなりに目一杯の感情表現だっただろうからね」
 忘却とは、逆らえない。
「大丈夫、それが生きることだよって言ったよ。笑いかけたら、苦しそうな顔をして、俯いて、座り込んで、背中を揺らしてた。白いパティサラはしっかり持ってたね。持ち帰ればいいさ。夢だろうからいつか消えるけど。草元素で編んだものなら少しは丈夫かもね」
 白いパティサラ。
「子どもが泣いてたから、壁際で泣き終わるまで待ったよ。泣き止んだ頃には夜が明けてた。何だか振り切ったみたいで、僕は壁から離れて手を振ったよ。まあ、子どもも分かったんだろうね。立ち去ったよ。お別れだ。なんだか、とても眠たくなって」
 眠たい?
「夢が終わる気がした」

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