「あの、こちらです」
 綾華に連れられて来たのは部屋の一つである。カーヴェは私室の一つだろうと察した。そして、綾華が見せてくれたのはいくつかの宝飾品だ。
「すみません、実はこれらはお兄様達に何も言っていなくて……」
「当主様に、ですね」
「はい。贈り物として頂いたので、きちんと返礼はしたのですが、手に余るというか。見ていただけませんか?」
「あの、専門の方は呼ばなくていいのですか?」
「見ていただいたことはあるのですが、分からないと……ええと、カーヴェ様の服を見ていたらもしかしたらと」
「では、失礼します」
 カーヴェは宝飾品と向き直った。念のため、白い手袋をつける。カーヴェは建築家の知識を求められて遺跡調査にもよく出向く。砂漠の民との交流があるのも大きく、貴重な品との向き合い方は心得ていたし、宝石やアクセサリーの知識も詰め込んである。
 問題の宝飾品たちはスメールのものがひとつあったが、多くはスネージナヤの古代のものであった。呪いや毒物などの反応は無い。サポート特化のカーヴェは、その手の、いわゆる状態異常を引き起こすものへの気配が敏感だ。その勘に引っかからないので、確かである。
 状態は限りなく良い。見た目だけなら、作られてすぐに見えるだろう。実際、大抵の専門家は古代のものとは見抜けない。それは、これらが耐久性の高い宝石と共に、金を多く使ってあることも影響している。宝石の色味は赤、緑が多い。実に古代のスネージナヤ好みだ。
 で、おそらく神に近い王家かその近親者への献上品である。そこが頭が痛い。綾華の手にはあまりにも余る。本来なら国交問題である。現在のスネージナヤの政権とは関係ないが、何かあったら返還を求められるだろう。しかも強く言われる。絶対に。
 ところで、カーヴェは社交の場にも慣れている。教令院の妙論派は特に派手な場に出される。弱い派として面倒事を押し付けられているというのもあるが、そもそも何かと金持ち相手の依頼と仕事が多い。栄誉卒業生ともなれば、呼び出しは多かった。なお、アルハイゼンが書記官になってからはカーヴェの呼び出しが減ったものである。手を回したわけだろう。たぶん日常への干渉を避けるためだ。
 あと、アルハイゼンは学生時代から、カーヴェに惹きつけられた厄介事、つまり恋愛沙汰を持ち前の言葉の鋭さで散々処理している。カーヴェ自身、社交の場に出ると大抵何かあるので、わりとアルハイゼンを連れ回していた。すまない後輩。反省はしていない。
「どうでしょうか?」
「……これらはどうなさる予定でしたか?」
「保管するしかないかと思っていました。贈り物ですから」
「そうでしたか」
 方針は合ってる。保管しかない。だが、理由はこれは説明せねばならないだろう。カーヴェはなるべく簡単に説明すべく、穏やかになるよう心がけて口を開いた。
「貴重な品です。古代のものなので、学術的な価値もあります」
「え、」
「決して新しいものでありません。そして、おそらくスネージナヤ産が殆どでしょう。具体的にはこれらです。こちらのひとつだけはスメールですね」
「スネージナヤ、ですか」
「現在と古代のスネージナヤは体制も情勢も大きく違います。不安になられるでしょうが、呪いなどの悪いものはありません」
「まあ」
「ただ、現在のスネージナヤに知られた場合、返還を求められる可能性があります。なので、そのやり取りが煩わしいようであれば、保管しかありません。手を加えることはお控えください」
「そうでしたか……」
「保管については湿度と気温の管理が必要になります。稲妻でしたら桐が良いでしょう。箱の中であっても、なるべく暗所に保管をお願いします。かつ、地下室があれば地下室が良いです。温度は低めが良いかと」
「はい!」
「スネージナヤ産についてはこの辺りですね。スメールのものは学術的に価値はありません。時代も比較的新しく、宝石を再利用して新しい装飾品になさるのもよろしいかと。職人については、稲妻の方が良いですね。お嬢様に最も似合う形に仕上げてくださるでしょうから」
 以上ですと微笑む。綾華は目をキラキラとさせ、楽しそうにしていた。
「お詳しいのですね!」
「専門家ほどはありませんよ」
「いえ、充分です。スネージナヤの方はこれ以上、人目につかないようにしておきます」
「はい」
「スメールのものですが、知り合いの宝飾職人の方に頼んでみます」
「ぜひ。その方がきっと宝石も喜ぶでしょう」
 カーヴェは言う。
「価値とは使い方によって大きく変化します。お嬢様ならきっと大丈夫ですよ」
「ありがとうございます!」
 綾華は嬉しそうだ。手伝えてよかった。カーヴェは嬉しくなった。そして綾華が宝飾品を仕舞う間に手袋を外し、片付ける。
 そして、さらに綾華は言うのだ。
「お礼としてお着物を選んでも良いでしょうか?!」
「……はい?」

 カーヴェは大層困惑していた。いや本当に。善意で宝飾品の鑑定をしたら綾華とそのお付きの方々に着物を選ばれている。
「あの?」
「カーヴェ様はお顔と髪と目の色が華やかなので絶対にこちらが似合います!」
「女性物では?」
「袴にしましょう! その方が歩きやすいですし」
「それはそうですが、あの、僕は男ですが」
「婚前ですか?」
「振り袖は流石に遠慮していただけると……」
「でも柄がそちらの方が……」
「あの……」
 とても楽しそうである。お付きの方々も楽しそうだから困る。女性に囲まれるのは慣れているし、むしろ安心するのだが、異性装って大丈夫だったか。稲妻ではわりと異性装の文化もあるが、あれはハレだったり特殊な職だっりする筈である。
 ごく普通の建築家の服では無い。

 結果としてカーヴェは淡い桜色と黄色を使った着物と、濃い桜色の袴を着ていた。もちろん丈は足首ほどある。髪は結い上げられて、うなじが見えているだろう。せめてもと髪型については結い上げただけで、まとめて団子のようにはなってない。歩くとやや癖のある髪が揺れるだろう。
 化粧は自前のものだけで勘弁してもらえた。目元に化粧してて良かった。自前の睫毛が長くて良かった。なお肌質をめちゃくちゃ褒められた。そこは素直に嬉しかった。手入れの甲斐がある。
「お兄様たちに見ていただきましょう!」
「ええと、それはお忙しいのでは?」
「カーヴェ様は綺麗なので大丈夫です!」
「そこではなく、いえ、そこも心配はあるのですが、あの、お嬢様」
 しかもお付きの人々までぜひ当主様にと言っている。何故。カーヴェはいくら美人の自覚はあれど(完全に過去の恋愛沙汰のせいである。怖いね。みんな気をつけようね)流石に異性装した姿を男性に見られることに抵抗がある。何せ精神は女性である。恥ずかしいというより、怖い(過去の恋愛沙汰のせいである。学生の時だけでは無い。卒業後に再会してからもアルハイゼンを始め、ティナリとセノにもめちゃくちゃ世話になっている。あれ、もこうれ過去形じゃないな)。男性恐怖症ではない。決して無い。だが、それはそれ、これはこれである。カーヴェは男女分け隔てなく接するが、普段と違う格好への反応は普通に怖い。女性はその辺り寛容なので怖くない。助かる。だが、今はその寛容さが怖い。
 だって当主様こと、綾人という人、物腰が柔らかではあったが、打ち合わせでの聡明さは底無しであった。決して学者気質ではないし、教令院が求める聡明さとは違う。だから、特に興味が湧くことはない。大体、あの手の人物は政略に長けているタイプでる。カーヴェは仕事で政治に関わる人を相手にすることもある。完全に、それ、である。
「ではトーマはどうでしょう?」
「トーマさんは、側近の方でしたね? なぜ見せに」
「トーマは優しいですので!」
 その言い方は良いのだろうか。カーヴェは普通に心配だった。あと綾華のテンションが高い。少女らしさ全開だ。恐らく姫君として様々なことをこなしていると思われる。じゃなかったら先ほどの宝飾品の話が通じない。学もあるだろう。なのでつまりは。
 綾華にとても好かれた、わけである。
 妹みたいでとても可愛らしいが、それはそれで兄である綾人的にどうなんだろうとか、トーマと仲が良いのなら、またそれは大丈夫なのかと不安である。カーヴェとしては綾華は完全に妹だと思ってきているが、果たして理解が得られるか。
 ティナリには、コレイと友達であることを認めてもらえたが、それはそれ、これはこれである。

 かくして、トーマがいるという部屋に連れてこられてしまった。綾華、強い。
「トーマ、いますか?」
「はい、お嬢、なんです、か」
 さくっとトーマは障子戸を開く。そして、まあ、綾華の後ろにカーヴェが控えていたわけである。トーマは目を丸くして、はわ、と口元を手で押さえていた。若い子だなあと思う。
「あの、お嬢、これは」
「カーヴェ様です!」
「いえあの」
「お嬢様に選んでいただくことになりまして」
「うえ、えっと」
「とてもお綺麗なので頑張りました!」
「前のお洋服は……?」
「ちゃんとあります!」
「うう……」
 トーマは顔を押さえてしまった。必要なのは胃薬だろうか。カーヴェは専門ではないので流石に薬は下手なことを言えない。
 とか言っていたらである。
「トーマ、綾華、どうかしたのかい?」
「若ーっ!!」
「お兄様!」
 綾人が来てしまった。何故集合したのか。

 カーヴェは立つことしかできない。綾華はプレゼンしている。おそらくここまで楽しそうな綾華は珍しいのだろう。綾人の目は優しい。トーマはそわそわとしている。頑張ってくれ。カーヴェは適度に体の力を抜きつつ、表情を張り詰めることもなく、とりあえず立っていた。立ち話でいいのかなこれ。分からないが。
 ちらりとお付きの方であろう人々が見えたので見てみたら、何故か微笑まれてしまった。まあ、綾華が楽しそうなのが最優先なのだろう。恐らく。だってお嬢様だろう、ご令嬢だろう、姫君なのだろう。普段とても窮屈な筈である。少しは少女らしくあってもいい。まあ、一般の感覚ではあるが。
 果たしてお前は一般なのかと脳内で学者仲間が言っている気がするが、カーヴェはスメールにおいて普通に市井で生活しているので、例え妙論派の星だろうと、ルームメイトが教令院の書記官やっていようと、レンジャー長と大マハマトラの友人がいようと、学者仲間が各国にいようと、カーヴェは市井の人間だと思っている。いや社交の場とかも問題ないし、諸知識は可能な限り脳に叩き込んだが。
「カーヴェ様、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。お嬢様が楽しそうで良かったです」
「ありがとうございます! わがままを叶えていただけて嬉しいです!」
「僕が出来ることは少ないですから」
「でも明日からのお着物はどうしましょう……」
「街に降りて購入しますので、お気になさらず」
「えっ」
 トーマが驚いている。カーヴェは苦笑した。
「僕の服だとこちらでは目立つので。それに、それなりに稲妻に滞在することになるので、こちらの服の方が自然かと……」
「でも、」
「お気になさらないでください。僕はただの建築家です。異国の人間ではありますが」
「ああいや、そうじゃなくて、えっと」
 彼はちらりと綾人を見る。綾華も綾人を見る。カーヴェはそれらに合わせることはせず、目を伏せた。いや、これは譲りたくない。頼む。
 綾人の声がした。
「私の着物を貸しましょうか?」
 カーヴェは顔を上げた。いや、いやいやいや。
「当主様の着物はだめです」
「綾華の着物はいいのに?」
「これは色々と訳がありまして」
「私のでもいいのではありませんか?」
「本来ならばどちらの方のも着てはなりません。僕は、その、市井の人間なので、」
 だから、頼む。本当に、頼む。カーヴェは必死であった。カーヴェは貴族にやたらめったら贈り物をされた過去もある。社交界って怖いね。金のある人間と地位のある人間はな、贈り物が、高い、多い。とにかく多いのだ。なので最初に断わるのが肝心である。綾華の件は不可抗力である。たすけて。
「ふふ、大丈夫ですよ。困らせてしまってすみません」
「いえ、すみません。では、先に下がらせていただきます」
「あ、カーヴェ様、えっと、」
「お嬢様、またお話させてください」
「はい! ぜひ!」
 明るい顔をする綾華にカーヴェは嬉しくなる。では、と部屋を出た。そして、綾華のお付きの方々の一部に着物から元の服に着替えたいと頼んだのだった。着付けを見ていたので、着物を脱ぐことはできるが、元の服はどこにあるのか不明である。


[newpage]


 かくして、綾人、綾華、トーマは部屋に残ったわけである。
「カーヴェ様、ご迷惑ではなかったでしょうか」
「お嬢……」
「でも本当に美して綺麗な方で、異国の方だとしても、その、旅人さんの元でも見たことのない方で、とても、憧れてしまって」
「憧れ?」
 綾人が問いかける。綾華はこくんと頷いた。
「仕事をされている時の立ち姿があまりにも、人離れして見えて。異国のお姫様とは、このような方だと思ってしまって」
「彼は男性だけれど」
「分かっています! でも、言ってもいいのか分からないのですが」
 綾華は膝の上の手をきゅっと握りしめた。
「今にも散りそうな桜に見えたのです」
 それは綾華の美しいと思う桜とは少し違う。それは、散り際の最期の輝きであり、儚さである。確かに、美しくはある。美しいのだが。悲しい。
 稲妻は永遠の国だ。カーヴェは、違う。きっと、その命は、魂は、仕事に捧げられている。その在り方は良いことだ。でも、あまりにも傾いている。
「引き留めるべきだと思ったのです。話しかけなければと思ったのです。カーヴェ様を失ってはいけないと、あの美しい方が少しでもこの世に、未練があれば、と」
 それは人の思いだけが、引き留められるものである、と。

 全ては綾華の直感である。だが綾華の直感は研ぎ澄まされている。トーマも綾人もよく分かっている。トーマは言う。
「あの方の在り方はまだ分からないけれど、少しでも稲妻に長く居てほしいとは思ったなあ」
 あの絵画のような、初夏の庭の中のカーヴェは、仕事の責任を持っているとトーマは感じた。性別が分からない程に美しい。綺麗だ。優しい。そして、稲妻に詳しい。
 まだ何も分からないけれど、ただ、そこに居ることを当たり前だと思ってはいけない気がした。そのことは、言えないけれど。

 綾人は黙って聞いていた。そして、言う。
「学があるようですね」
 その言葉に素早く反応したのは綾華だ。
「宝飾品を見ていただきました。詳しいことは伏せますが、知識は確かな方です」
「建築とは、生半可な頭脳ではできない筈です」
「あ! 測量機とか使ってなかった!」
「そこもありますね。打ち合わせではその場で大体の図面を描いていました。数字も、直線も、私の記憶にある通りに、正確でした。どれも、記録した用紙を見ていなかったようですし、並みの建築家ができることじゃありません」
 なら、と綾華は眉を寄せる。
「カーヴェ様は何者なのでしょうか」
「トーマ」
「はい」
「彼に依頼を出したのは誰でしたか?」
「奉公人の琴代です。ええと、異国までカーヴェさんに依頼に行きました。どこの国だったか……」
「では琴代に聞いておいてください。綾華は彼から離れないように」
 綾華はそれはと顔を曇らせた。
「疑うべき、と」
「そうではないですよ」
 綾人はどこかを見ていた。懐かしいものを見ていた。
 綾華を見る、柔らかで穏やかで優しい目は。愛情の目だ。久しく、綾華に向けられない目だ。綾人自身はもういい。もう割り切った。だけれどまだ綾華は少女であってもいい。庇護下であってもいいのだから。
「身元が知りたいのは、私の疑問の答えが知りたいだけです。綾華は彼と過ごしたいでしょう?」
「っはい!」
「ではそうした方がいいです」
 それを聞いて、綾華は退室する。カーヴェを追いかける足早な足音。トーマはカーヴェのために離れ部屋の用意を終わらせに行く。

 残った綾人は思うのだ。
「……どこかで」
 カーヴェの名前を聞いたような。


[newpage]


 カーヴェは着替えを済ませ、綾華とトーマに離れ部屋に案内された。何故。
「あの、僕がここを使っていいのですか?」
「ぜひ!」
「若の許可は出てます!」
「でも、ここまでしていただくとも、屋根裏とかで構わないのですが」
 本気でそうなのである。だが、綾華もトーマもふるふると慌てた。
「い、いけません!」
「それは駄目ですっ!」
「そんなに……?」
 慌て方がすごい。可哀想なことをしている気がしてくる。カーヴェは真面目に申し訳なくなった。
 ただこの離れ部屋は一人にしては広い上に、明らかに客間であった。何度も言うが、カーヴェは建築家である。よって、この部屋の設えが客間であり、しかも大切な部屋だと分かる。寝るだけの部屋ではないし、仕事部屋でもない。ましては、一般人が泊まる部屋でもないのだ。まだ、最上ランクの内装ではない。でも、そもそもこの屋敷ではかなりの良い立地の部屋であろう。
 綾華の心遣いだろうか。カーヴェはとりあえず入室し、荷物を置いた。
 さて、やりたいことは、まずは日用品の買い出しだ。
「では街に行ってきます」
「では私も!」
「お嬢様は稽古などがあるのでは?」
「え、あ、その」
「お嬢を連れて行ってください!」
「でも、ただ日用品を買うだけなので……」
「アッ」
 トーマはそれはお嬢を連れて行けない。という顔をした。お嬢様が街中を異国の男性と歩いて日用品を買ってたらあまりにも、不相応である。カーヴェは苦笑した。
「大丈夫です。何事にも向き不向きがありますから」
「な、ならトーマを!」
「えっお嬢?!」
「トーマさんは当主様の側近だと思っていたのですが、間違いありませんか?」
「あうっ」
「トーマ、しっかり!」
 何だろうこれ。カーヴェは遠い目をした。少年少女がわりと大変なことになっている。おかしいな、お嬢様と当主の側近だぞ。カーヴェの買い出しなぞについていく必要はない。
 だが、好意だからと、ここで頼むのは、本当に失礼なことだとカーヴェは思う。身分とはそういうものだ。屋敷内ではある程度分け隔て無く接することができても、外では違う。だからここは大人のカーヴェが言わねばならない。
「では、行ってきます」
「「あっっ」」
 カーヴェは一礼して、最低限の荷物でその場から離脱した。あれは終わらないやり取りだろう。

 かくしてカーヴェはふわふわと城下町を目指す。屋敷から離れているが、何せカーヴェなので平気である。相変わらず敵に認識されないまま、進む。景色が良いなあと、野の花や初夏の木々、そして飛び交う華やかで独特な生き物たち。全てがカーヴェの感性を刺激する。これは、仕事以外の時間は絵を描いてもいいかもしれない。早く仕上げることに執心すると、稲妻の良さを図面に落とし込めない。カーヴェは日中の散歩と、空き時間に何かしら絵を描くことに決めた。まあ夜に寝る前になるだろうが。仕事は仕事である。大人なのでそれはやる。

 そんなことを考えていると野原に、白い狐がいた。あれは、とすぐに気がつく。カーヴェの周囲にはいつものようについてきていた弱い魔物たちがいた。彼らもまた、気がついた。カーヴェは走った。
 白い狐は脚を怪我している。しかもかなり怪我が大きい。自然に淘汰されるべきか。一瞬だけ考える。だが、これは違う。この怪我は、人為的なものだろう。
 そう判断してからは迷わない。カーヴェは白い狐に手をかざす。息は細い。でも、大丈夫。目を閉じる。草元素が回る。回る。芽吹く。花が咲く。空気が、柔らかくなる。あたたかい、命の温もり。
 目を開くと、白い狐がゆっくりと瞼を上げた。そして、ぴょんと跳ねるように立ち上がる。四つ足で、しばらくカーヴェの周りを跳ねていた。
 やがて、狐が飛び出してくる。今度は黒だ。カーヴェはその場に座った。狐たちがカーヴェの周りで喜ぶように跳ねて、歩いて、駆ける。
「……あ、」
 誰かがいた。カーヴェは笑う。
「あなたの元にいるべきです」
 黒い着物。ここに、突然現れたひと。カーヴェは彼女が何者かは分からない。でも、ただ、彼女は悪ではない。カーヴェには悪い人は寄ってこないので。
「あの、でも、」
「僕はしばらく稲妻でお世話になります。では、いつかまた」
 カーヴェは立ち上がり、歩く。さて、城下町へ向かおう。か弱い魔物たちはぴょこぴょことカーヴェを危険から守るようについてくる。小動物も木々の間、草の間から顔を覗かせる。カーヴェにとってはいつものことだ。だから深くは気にしない。ただ、優しく彼らを気にかけながら、歩く。

 彼女はカーヴェの後ろ姿を見つめていた。


 稲妻城の城下町である。カーヴェはサクサクと買い物をしていく。モラは仕事で稼いだ分がある。借金返済には遠いが、こうして必要経費に必要なものだ。着物も揃えた。完全な着物より、書生風を揃える。何故なら、完全な和服では、カーヴェは仕事ができない。書生のようなシャツが着物の中にあるなら、袖を紐で纏めさえすれば、作業が楽になる。
 その他、日用品を買い揃える。その中で、目元の化粧用として、紅を買った。単純に家に忘れたからである。あとなんか漆の器が綺麗で可愛かったので、小さいものならと欲を出した。
 そうこうしていると、あれ、と声をかけられる。おやと振り返った。
「旅人とパイモン?」
「何でカーヴェがここにいるの?」
「何してんだ?!」
「仕事だよ」
「どこで? 何の仕事?」
「神里家の離れ屋敷の設計を頼まれて」
「「えっ」」
「え?」
 旅人とパイモンが固まった。何だろう。

 旅人のワープって本当に便利だ。カーヴェは思う。スメールにいるって聞いたんだけどなあ、ルームメイトの後輩よ。いやもう旅人はワープがあるから分からないか。神出鬼没である。
「綾人! トーマ! 綾華!!」
「オイラたちが来たぞー!」
 旅人はしっかりとカーヴェの手を握り、カーヴェはもう片手で何とか荷物を持ち、パイモンはカーヴェの近くを飛んでいた。パイモンに懐かれたなあと思う。
「あら、旅人さん、と、カーヴェ様?!」
「うわー! 何?!」
「騒々しいですね。どうかしたのですか?」
 旅人は言った。
「すぐに会議するよ」
「旅人、目が据わってるよ……」
「カーヴェは黙ってて」
 少女は強い。というか怖い。

 綾人の執務室である。カーヴェは普通に何が起きてるのか分からなかった。何か問題あったのかな。
「まず綾人、ここにカーヴェが居る理由を述べてほしいの」
「神里家の離れ屋敷を設計する依頼だよ」
「カーヴェ、本当?」
「そうだよ。仕事だから安心して」
「じゃあ何で城下町にいたの?」
「そりゃ、しばらく稲妻にいることになるから、日用品が必要だろう?」
「何で単独行動してるの?」
「そこかい?」
 旅人とカーヴェのやり取りに、あのうと綾華が挙手した。
「旅人さんとカーヴェ様のご関係は……?」
「旅の仲間の友達。まだ旅に連れて行けないの」
「そりゃ、仕事があるからね。フリーランスだから仕方ないよ」
「いやシステムの壁」
「何の話だい?」
 システムの壁が分からない。カーヴェは苦笑するしかない。
 次に挙手したのトーマだ。
「仲が良い、のか……?」
「仲良しのつもりだよ」
「旅人には助けてもらっているからね。手助けはちゃんとしないと」
「そういうのはいいの。カーヴェはいつか洞天に絶対に招くから」
「洞天?」
「便利部屋」
「どこかな?」
 また分からないことを言う。旅人はそういうところがある。パイモンのフォローが入った。何にも分からない。というかと、カーヴェは問いかける。
「旅人は神里家の皆さんと知り合いなんだね」
「色々あったし、今でも旅に同行してもらうことがあるよ」
「そうなんだ」
「カーヴェは旅じゃなくて洞天ね」
「何故……」
 これつまり戦力外通告か。カーヴェは苦笑するしかない。いやだって、まあ、確かに武器は持てないが。サポートはそれなりに出来るつもりなんだけどな。
 最後に、綾人が言った。
「カーヴェさんの紹介をしていただけますか?」
 紹介。カーヴェは旅人を見る。旅人はじっとカーヴェを見上げた。嫌な予感がする。
「この人はカーヴェ。スメールの教令院妙論派の栄誉卒業生であり、建築家。趣味は人助けで、人助けのやりすぎでいつもモラがないのと、倒れてる」
「旅人、誤解が生まれるからね」
「どの辺を訂正したい?」
「確かにお金は少ないけど、ちゃんと持ってるよ。仕事に使うお金はちゃんとあるからね。あと別に常に倒れてはない」
「倒れてるよ」
「そんな事はないから。誤解。君まで過保護にならなくていいよ」
「大体、カーヴェが国から長期間離れるとナヒーダが困るよ」
「ナヒーダって誰?」
「草神様」
「それ僕が居ないことじゃなくて、アルハイゼンの効率低下と、セノの業務が増えるのと、ティナリが疲弊するってだけだよね?」
「その三人がわりと国を支えてるよね」
「まあそう」
「でもってカーヴェ、妙論派の星って言われてるの自覚してる?」
「自覚してるよ。でも僕はただの建築家だから」
「天才建築家だよ。大建築家だよ。スメールの建築物いくつ担当したの」
「いやそれは数えてない」
「そもそもカーヴェの能力はサポート特化だし、パッシブスキルが探索に強すぎると思うから散歩はいいよ。でもね、頼むから元素力を使わないで」
「つかってな、い、よ」
「あ、使ったの?」
「いや、まあ、ちょっとだけ」
「いつ?」
「さっき。狐が怪我してたから、治しただけだよ。そう気にしないで」
「アルハイゼンからカーヴェのこと頼まれたんだよね」
「あいつ年下に何頼んでるんだ?」
「医者呼んでいい?」
「やめようこの話は」
「結構減ってる?」
「仕事に問題はないよ」
「日常生活」
「できるから」
「ほんとに?」
「大丈夫!」
「でも単独行動はやめて。この事に関してはアルハイゼンとティナリとセノに頼まれてるの」
「なんで?」
「人助けで死にそうになるのは誰?」
「僕だね!!」
「そういうところ!!」
「おーい、旅人、カーヴェ、落ち着けー! みんな
ついて行けてないぞ!」
 綾華とトーマと綾人がそれぞれぽかんとしている。表情の大きさには差があるが、皆が口を挟む隙間がないといった様子だ。まあ、そうなる。
「旅人」
「何、カーヴェ」
「全発言を撤回しよう」
「無理だよ」
 つらい。

「とりあえず、カーヴェはスメールの大切な建築家なの。あと町の人にすごく好かれてるし、お人好しで人助けが趣味なだけあって、嫌う一般人はいないの」
「語弊があるからな」
「スメールの掲示板のレスバを皆が楽しみにしてるよ」
「あれは楽しみにしなくていいんだよ」
「で、綾人達はカーヴェのことを気をつけてあげてほしいの。仕事じゃなかったら私が引き取ってるところだったんだけど」
「旅人、ちゃんと仕事だから。依頼を受けたから」
「ところで報酬を聞いてもいい?」
 流石に、と額を耳打ちする。旅人はジト目になった。
「本気?」
「適正価格だよ」
「どこが? カーヴェが線を引くだけでどれだけのお金が動くか知ってる? 政治の駆け引きとか」
「ここは稲妻だから関係ないよ」
「国際問題にしていい?」
「やめてほしい」
 綾華が、ふと気がつく。
「もしかして、スメールの社交界に」
「お嬢様、僕のことは気にせず」
「カーヴェ、居たの?」
「まあ、妙論派の卒業生だから、教令院の顔に使われはするよね」
「もしかして、色々とお詳しいのは、」
「お嬢様はどうか気にせず」
「カーヴェは、今、教令院を避けてるもんね」
「しょうがないだろ。でも学者仲間からの依頼は受けるし、普通に教令院勤めの友人と酒場で話したり、学者達と討論するよ」
「最後が普通じゃないんだよね」
「スメールシティは学者と学生で溢れてるから日常だと思って」
「きょうれいいん、って、あのすっごい頭のいい学校……?」
「トーマさんも気にせず」
「そうだよ、これでもカーヴェはめちゃくちゃ頭が良いの」
「言い方が酷くないかい?」
「成る程」
 綾人が微笑んだ。
「身元がきちんと分かりました」
「あ、はい」
「うん」
「とすると、色々と対応が……」
「あ、僕は普通の建築家なので」
「カーヴェちょっと黙ろう」
「どうして?」
「スメールに一報を入れましょう。カーヴェさんには必要な諸々を……」
「当主様、何もしなくて大丈夫です。僕は、今、ただの建築家のカーヴェとして依頼を受けて仕事に来ていますので」
「カーヴェ、黙ってて」
「旅人も誤解は解こうか」
「何一つ誤解はないよ」
「本当かな?」
「あ、身分とかどうなるんだ?」
 トーマの発言に、部屋が静かになる。
 カーヴェは先手が必要だと思った。
「僕は一般人です」
「カーヴェはスメールに必要な人材だよ」
 旅人の追撃が来た。綾華が首を傾げる。
「となると貴族階級なるのでしょうか?」
「いや、僕は一般人です」
「貴族かも? とにかく学者ではあるよね」
「称号としてはそうなるかな」
「あと妙論派の星」
「それは多分、稲妻だと分からないよね」
「取り潰しも考えられてた弱小学派を建て直したのはカーヴェなんでしょ? だから妙論派の星って呼ばれてるって」
「誰から聞いたんだい?」
「アルハイゼンとティナリとセノとナヒーダ」
「うーん、全員に伝言頼める?」
「いいよ」
「僕は普通に仕事がしたい」
「聞こえなかった」
「旅人??」
 そこで綾人と綾華とトーマが微妙な顔をしていた。えっ何事。旅人を見る。笑顔である。待って。
「何?! 今の話に何があったんだい?!」
「カーヴェ、お家事情だよ」
「この話はやめよう」
「お、察しがいいね」
「大抵のお家事情は複雑だからね」
「カーヴェって天涯孤独?」
「突然なんだい?」
「家族の話聞かないなーって」
「まあアルハイゼンがあれだし」
「アルハイゼンはご両親を早くに亡くしておばあちゃんに育てられたんだよね」
「うん」
「カーヴェは?」
「特に知らない。家族は記憶にないなあ」
「うん」
「うん??」
 また綾人と綾華とトーマが微妙な顔をしている。というか空気が重くなっている。
「旅人」
「なに?」
「絶対、何か知ってて僕を喋らせてるね?」
「お家事情だよ」
「聞かなかった事にしよう」
 カーヴェは諦めた。人生は諦めも大切である。
 というわけで。
「皆様、どうか今まで通りに」
「……いや、ちょっと、厳しい……」
「トーマさん??」
 何があったんだ。知りたくないが。本当に知りたくないが。


[newpage]


 かくして。カーヴェの取り扱いについて、カーヴェを部屋から追い出して会議が行われ始めた。カーヴェは部屋のすぐ外も許されず、離れの部屋に向かった。
 旅人の行動が善意なのは分かるので、もうどうにでもなれである。仕事さえできればいい。カーヴェはどうせ仕事が終わったらスメールに帰るのだ。
 荷解きをして、棚に荷物を仕舞う。高級な調度品たちをあまり使いたくないが、仕方ない。流石に全く出さずには過ごせない。テキパキと仕事場を作っていく。といっても主に必要なのは図面台だ。これが一番大きくて重い。畳が傷まないように布を噛ませて、設置する。これがあるから板間が良かったのだが、何故かしっかり畳のある部屋で仕事をすることになった。どの辺りで間違えたのだろうか。カーヴェは何も分からない。
 とりあえず今日は稲妻の服ではなく、今の服でいいだろう。仕事も今日はまだ図面は引かないことだし。
 そのまま、縁側でアイデアを練る。大体、まだ打ち合わせが終わってないのだ。図面が引けるわけがない。アイデアをとにかく描き出していく。紙の消費量に関しては自覚がある。ちゃんと城下町で藁半紙を大量に買っておいた。安くて助かる。藁半紙なので鉛筆を使う。鉛筆は大量に持参した。こちらは手に慣れた描きやすいメーカーがあるので、稲妻では購入できない。
 カーヴェは基本的に筆記具は何でもいいが、大量にアイデアを出す時と、図面を引く時は、道具を選ぶ。じゃないとスムーズな仕事ができない。もちろん、そうは言ってられない時は何でも使うが。

 しばらくざかざかと描いて、たまに色鉛筆で色を置く。まだ会議は終わらないらしい。何を話しているのか怖すぎる。カーヴェは気にしたくない。仕事に影響してほしくない。報酬については契約が済んでるので訂正するのが面倒なので額を上げる必要がない。扱いについては客人より、ただの建築家であるとしてほしい。カーヴェは天才と呼ばれるのが好きではないし、普通の人達と生きてきた。カーヴェの仕事は確かに金持ちや権力者を相手にすることが多いが、それでも市井の人々、本当に助けを必要としている人たちから伸ばされた手へ、きちんと応えたいのだ。

 ふわりと縁側に人が現れる。カーヴェは顔を上げた。狐を助けた時の女性だった。明らかに、人ではない。だが、その目はひどく心配そうにしていた。
「あなたに、助けていただきました」
 辿々しい言葉だった。おそらく、慣れていないのだ。カーヴェは思う。きっと位の高い存在なのだろう。悪いものではないが、力とは大切に扱うべきだ。振るう力は、善にも悪にもなる。その辺りはセノが詳しいだろう。
「僕は大したことはしてませんよ」
「命を、救いました」
「怪我を治療しただけです」
「でも、あなたは、あなたの体が」
 ああ、分かるのだ。カーヴェは苦笑する。やはりただの人ではない。神に通じる。本当の姿も名前も知る必要はない。
「僕は出来ることをしただけ。助けを求める手に、応えただけです」
「言葉は通じません」
「だとしても、あの怪我は人為的でしたね」
 そのひとは口を閉ざす。カーヴェは言う。
「人間の責任は人間が取るべきです。だから、当然のことです」
「だとしたら、あなたの体は、なんのためにあるのですか?」
「助けを求める、全てのために」
 ああ、顔が歪んだ。困らせてしまう。でも、カーヴェの在り方だ。そのひとは言う。
「自己犠牲と、博愛、ですか?」
「そう言う人もいます」
「あなたばかりが、報われません」
「いいえ。伸ばしてくれた、その手を掴むことができた。それだけでいいのです」
「結果はどうなりますか」
「どのようなものでも、僕の気持ちは変わりません」
「それは、」
「手を掴めた。応じることができた。必要とされた助けを叶えられた。その結果が憎まれても、恨まれても、呪われても、罵られても、」
「……」
「僕は幸せです。人助けとは、誰かを幸福にするのではありません。人助けは僕を幸せにするものですから」
 そうして、そのひとは言うのだ。
「永遠を、望みますか」
 稲妻にとっての、永遠。それは、大切なことだと聞く。ならば。
「僕自身は永遠ではない。だけれど、僕が作った建物は半永久的かもしれませんね」
 そのひとは正しく汲み取る。そして、悔しそうに言うのだ。
「何も、要らないのですね」
「普通の人間なので」
「その精神は人間からかけ離れています」
「そんな事はないです。僕は普通に人助けをして、酒を飲んで、酔い潰れて、ルームメイトにツケをして回収される。破産した。借金もある。ただの人間ですから」
 すっと、手が伸びる。カーヴェは掴まない。そのひとはただ、言う。
「せめて、あなたの命の助けになりますように」
 カーヴェのピアスがからりと動いた。もしかしたら、と思う。これは何らかの元素の塊がまた付いたのがもしれない。岩元素に続いて、何なんだか。まあ、いいけれど。
 確かに、カーヴェの元素不足はわりと深刻である自覚はある。ただのスキルの使い過ぎかもしれない。何にも分からないが、そういう体質だ。
「ありがとうございます」
「いえ、これだけしかできませんから」
 さようなら。そうして、消えた。

 カーヴェはそのまま仕事に戻った。アイデアはとめどない。中断など、無かったように湧いてくる。手は止まらない。


[newpage]


 旅人はしっかり見ていた。いや今のは雷電将軍、というより影だろう。何かしたのだ。あと、確実にカーヴェは元素不足を起こしている。鍾離先生の反応と、遠目に見た雷電の姿は、あまりにも似ていた。
「旅人さん、今のは」
「うん」
「カーヴェさんに何があったのでしょうか」
「多分また人助けをしたんだよ」
「人助けで雷電将軍が来るのか……?」
 旅人としては、焦る気持ちしかない。
「カーヴェ!!」
 すると、縁側で何かを描いていたカーヴェが顔を上げて、微笑み、ひらりと手を振った。
 旅人はそのまま降りて、走る。驚くカーヴェに抱きつく。服越しなのに、その体は、冷たい。
「元素力が不足してるの?」
「まあ、仕事に影響はないよ」
「何をしたの?」
「狐の命を助けただけさ」
 ああ、この人は。旅人は心配で仕方がなかった。

 かくして、カーヴェは離れ部屋にやって来た旅人たちを苦笑一つで受け入れた。
「会議は終わりましたか」
「とりあえず、カーヴェ様の言葉使いを常のものにと……」
「うーん仕事なんだけどな。仕方がないか。綾華さんも、僕のことは呼び捨てとかでいいからね」
「それは、頑張ります」
「うん。いい子」
 カーヴェは微笑む。優しい目だ。旅人はそういうところだよなあと思う。神里家にとっては特攻が刺さる。カーヴェの博愛は、この家族にとって嬉しくも悲しいだろう。当たり前に人を愛するのがカーヴェだ。それは本当にただの愛で、親から子へ与えられる無償の愛と、とても似ている。それでいて、つまりそれはカーヴェはその愛に対する返事は要らないのだ。人々を等しく愛する眼差しは、その返礼が無くとも、ただ愛した人々が無事であればいい。そのぐらいに、相手への期待が低い。というより、ただ息災であれば良いのだ。よって、神里家が得意とする返礼は、何一つ、カーヴェの手には必要ないのである。
 さらにいえば、カーヴェはいつかスメールに帰る。しかも、そう遠くない日に。離れてしまうのだ。遠い国へと。
 旅人は、難儀な仕事を受けてしまったカーヴェに同情したし、難儀な人に出会ってしまった神里家にもまた、同情したのだった。


[newpage]


 旅人とパイモンは冒険者協会の仕事に戻った。暇があったら様子を見にくるねと、旅人は言う。カーヴェは門の外まで見送った。さて、である。後ろにいる神里家の三人が問題だ。
 振り返った。
「ええと、とりあえず、改めて。僕はカーヴェ。建築家だ。依頼を受けたからには、仕事はちゃんとする。だから、うーん、この家の事情は分からないし、知るつもりもないけど、とりあえず、納品までよろしくね」
 そうして笑えば、綾華はよろしくお願いしますと笑い、トーマは困った顔をして、綾人はよろしくお願いしますねと微笑んでいた。


[newpage]


 カーヴェは描いている。時間はもう夜だ。夕飯は神里家の三人と食べた。多分、普段は食卓は囲まないのだろうなと察しつつ、とりあえずルームメイトと食べる時と同じように喋りながら、少しずつ食べた。口が小さいとか、料理が口に合わないとか、そういうことではない。これは本当に癖である。スメール学者あるあるだ。
 そのあとは、一旦離れに戻った。風呂はいつでもいいと奉公人の皆さんが言ってくれたので、カーヴェは仕事とは違う絵を描いていた。
 昼間に見た、この稲妻の景色だ。明かりはスメール並みのものがあったので、良かった。稲妻はわりと夜が暗い。というか、照明が控えめなのだ。その中でもカーヴェは絵を描けるが、今はあの鮮やかな風景を描きたい。その為には明かりが必要である。
 無言で絵を描いていく。上着は脱いだ。ハンガーにかけておいた。着物用しかないという事故がなくて良かったと思う。
 ふと、足音がした。誰だろうか。カーヴェの記憶と一致しない。奉公人の人ではない。綾華の付き人たちでもない。となると神里家三人の誰かになるが、こんな時間に訪ねてくるだろうか。もし来るならトーマか。カーヴェはそんなことを思いつつも手を止めない。必要ない。
「少し時間はありますか」
「時間ならあるけど」
 反射で答える。するりと障子戸が開いた。遅れて見る。かなりびっくりしたので。
「話をしても?」
「あっはい」
 綾人であった。うん、まあ、確かに客だったら当主が来る。
 だが、それはそれとして君はそんな人じゃないのではないだろうか。カーヴェはとりあえず絵筆を落いた。


[newpage]


 綾人は旅人に聞いたカーヴェの家族についての話と、綾華への対応と、夕食時の穏やかで明るい話声に、どうしても言いたいことがあって離れ部屋にやって来た。
 どうしても、とは思うが、今日来るかは迷った。カーヴェとの打ち合わせが終わっていないので、まだ彼は帰らない。だが、彼の仕事は正確で早い。焦る気持ちがあった。
 なので、声をかけて、返事を聞いたら、すぐに障子戸を開いてしまった。いや、普通はそれでいい。いいのだが。
 カーヴェは部屋の奥で絵を描いていた。何を描いているかは見えない。だが、横顔だった。それはいい。その、服装である。
 大きく開いた服から、真珠のような背中が見えた。胸元も開いていて、美しくきめ細やかな肌が見える。いや、うん。綾人は普通に戸惑った。スメールは比較的温暖な国だという。稲妻の四季とは違う。稲妻とて、確かに今は初夏だし、綾人だって比較的軽装だ。だが。
 薄着すぎる。私服が、それなのか。スメールでは普通なのか。何にも分からない。でも綾人はアルハイゼンやティナリやセノと洞天で会ったことがある。セノとは確かに似ているかもしれない。露出度が。いやでも、綾人の屋敷の、部屋の中のカーヴェはあまりにも綺麗で、美して。
「話をしても?」
 思わず、声が固くなる。カーヴェは顔を上げた。
「あっはい」
 彼は絵筆を置いた。綾人はとりあえず入室して、障子戸を閉める。静かな足音がする。彼は綾人と適切な距離に座る。やや足を崩していた。
「どうかしたのかい?」
 柔らかな声だ。大人の対応である、とは思うが。綾人はとりあえずと微笑む。
「上着を着てください」
「あ、そうか。こちらでは薄着だね」
 カーヴェは立ち上がり、昼間着ていた赤い上着を着た。風呂の前なので、寝間着じゃないのだろう。たぶん。綾人は遠い目をした。なぜ同性でこんな目にあってるのか。カーヴェは元の距離に戻って、きょとんとしている。危機感が無い。持たれても微妙だが。
「綾人君?」
 不思議そうである。話をしに来たのである。綾人は遠くなっていた意識を戻した。
「依頼を受けてくださり、ありがとうございます」
「ただ依頼があったから受けただけだよ。気にしないでおくれ」
「神里家の事情は汲まないと」
「だって仕事に必要ないからね」
 仕事。その一言が重い。カーヴェは穏やかだ。
「誰にでも事情はある。それを明かすことだけが、最善ではない。僕はそう思うよ」
 綾人とて、情報の大切さは分かる。だが。
「あなたは優しいので」
「うん?」
「あの子を気にかけてくださるでしょう」
「綾華さんのことかな? 普通のことしかしてないよ」
 その普通がどれだけ得難いことか。綾人も綾華もトーマも苦しいぐらいに知っている。
「ご家族はどうされてますか?」
「さあ? そもそも顔も覚えてないよ」
「どう育ちましたか」
「人の手で。色々な人の手で育ったね」
「施設、ということですか?」
「そうではないかな。うーん、気がついたら教令院にいたから。その前のことは昔すぎて覚えてないな」
「学友は多くいましたか」
「まあ友人は多かったと思う。でも、綾人君が思う学友と、教令院の学友は違うかもね」
 綾人は俯きかけていた顔を上げた。カーヴェは顎に手を当てている。説明しようとしていた。
「多分、稲妻では一定以上の家は家で学ぶだろうから、学友というものは限りなく少ない。で、いちいの人は逆に、学ぶ場所があるからそちらだろう? そうすると、そっちでは学友がいる。でも、あくまで同じことを学ぶ、一般の人々だ」
 カーヴェは目を伏せている。
「教令院は違う。ティワットで最大にして最高の学びの場にして、研究機関になる。これは市井の人々が生活の知恵を大勢で学ぶこととは全く違う。教令院はまず、入学年齢に決まりがない。ただし、学力が必要だ。入学だけで大変になるね」
 ううむと唸る。
「授業は教授や先生や学者によってレベルが様々だ。レベル、というより細分化かな。より特殊な学びを得るためには、まず多くの普遍を知る必要がある」
 それは。
「多くの普遍をどれだけ基礎知識としてあるか、で、教令院での学年は関係してくるかもしれない。飛び級も普通にあるよ」
 稲妻では少ないと聞くねと、カーヴェは言う。
「学派によって、さらに学ぶことは全く変わってくる。だが、優秀な生徒ほど早く課程を終えて卒業するわけじゃない。研究成果が必要になってくる。この辺りが卒業するのも難しい、なんて言われる所以かな」
 くすくすと笑った。
「僕の後輩はそもそも最初の半日で教令院で学ぶことはないと一度教令院から離れて、色々あって再び戻ってきたらしいけど、まあ彼は彼の学派に必要な基礎知識は家で学び終えていた。だから飛び級があってもあまりに授業が時間の無駄だからと、難しい本をわざわざ知恵の殿堂で借りて読んでたよ。教令院には当時アーカーシャ端末があったけれど、完全に全ての知識があるわけじゃないことを後輩は分かってたわけだ。それはつまり、とても異端で、天才と言われ、避けられてたよ」
 最高の学びの場であっても。
「一人きりでよく本を読んでた。友人もまともにいなくて。こんなことを話したら怒られそうだ」
「それは、」
「まあ、そんな後輩とたまたま友人になったのが僕だった。旅人から聞いただろう?」
 僕もまた、天才と言われた、と。
「友人は多く居たけれど、理解者は居なかったね。それが寂しいかどうかは個人の感性になるけど、僕は気にしなかった。知らない知恵がある人には、伝えればいい。友人だからといって、同じレベルまで引き上げる必要はないし、レベルを下げる必要もない」
 ただ、と。
「後輩は別の学派で、知識が僕とは全然違った。でも、それなのに、同じレベルの討論ができるわけだ。これはなかなか分からない感覚かもしれないけれど、同レベルの討論ができる人間というのは、僕らのような天才呼ばわりされる異端には何よりも特別なんだよ」
 天才、呼ばわり。綾人の思考に引っかかる。カーヴェは穏やかだ。
「まあ、結局は大喧嘩して、友達では無くなった。しばらく会うこともなかった。会話はもちろんない。何をしてるか知らない。そんな状況で、そもそも僕は先輩だったから、先に卒業した。ああ、研究成果は一人で出したよ。まあ、幾つか論文を書いたから、どれが卒業用に処理されたか忘れたけど」
 道を分たれた。
「何だかんだで、今はその後輩と再会してる。綾人君が旅人と旅をしたことがあるなら、会っているかもね。まあそれは当人から答えをもらっておくれ。僕の口から言うと本当に怒りそうだ。あいつは怒ると面倒だからね」
 それは柔らかで優しい。その声は、決して、特別とは語らない。
「まあ、ヒントを言うなら、互いに家族がいないから再会したのかな」
 ぞわ、とする。家族、の話。
「ま、綾人君は綾華さんがいる。トーマ君もいる。何一つ、心配することはないよ。ただ、責任は違うね。綾人君は当主だから、僕のような市井で暮らす建築家とは違う。例え僕が学者だろうと、卒業生だろうと、スメールにおいては、そんなに特別なことじゃない。何せ、教令院のための街みたいなものだから」
 カーヴェなりに、考えている。他人のことを考えている。綾人にはよく分からない。だって、あまりにも、境遇としては、良いものではない。
 孤独だ。何よりも。カーヴェとその後輩が同じレベルで討論ができようと、友達だとしても、同じ話はできないだろう。綾人には分かってしまった。それを、カーヴェは察した。
「孤独とは思わないよ。人間は誰しもが孤独だ。誰一人として、同一は無い。それが個性であり、個人であり、人間だからね」
 綾人はずっと一人だった。
「話したいことは話してごらん。僕なりの言葉しか返せないけれど」
「あの、」
 綾人は言葉に詰まった。そんな事は普段ならあり得ない。夜だからか。カーヴェがあまりに優しいからなのか。
「私は、ここで生きてきました」
「うん」
「父と母は、突然亡くなりました」
「そうか」
「家督は私に継がれました。もう、家は傾いていました」
「……」
「私は、当主として。綾華は表で、トーマは傍らで支えてくれました」
「……」
「私は、ずっとそうです。学ぶべきことを全て学んでから、当主になったわけではありません」
「そうだったんだ」
「はい、だから、」
 言葉に詰まる。カーヴェは穏やかに言った。
「それでも、今はここの当主だろう」
「……はい」
「僕は深くは介入しないよ。でもまあ、話を聞くに、こうだろうな、と綾人君達に思う事はある。でも、それを言っても、過去は戻らない。僕らは逆走しない。未来しかない。何を知ってしまえば、無知には戻れない。それはとても恐ろしいけれど、前に進む為に必要だ」
 スメールは知の国である。
「困難を肯定することは難しい。でも過去を気にしてしまえば、歩みは止まる。そうだな、僕はこの家のことは何も知らないに等しい。だからこうだと思うことを言おう」
 それは乾いた大地だ。
「無知とは乾いた大地だ。耕し、種を蒔き、水を撒く。すると大地は水をあっという間に吸い込んでいく。やがて種は大地に根を張り、芽吹き、伸びて、花を咲かせる」
 カーヴェは笑う。
「この水がきっと知恵だ。乾いた環境は困難だ。耕すことも困難だ。種を蒔くのも意外と難しい」
 条件だ。
「種が根を張るのも、芽吹くのも、伸びるのも、花を咲かせるのも、条件が揃わなければ叶わない。だけれど」
 僕はね。
「その花をとても美しく尊いものだと思うよ」
 カーヴェは笑う。綾華はカーヴェを散り際の桜だと言った。旅人は、今のカーヴェは元素力が足りていないと教えてくれた。でも、彼は今、笑う。それは花のように、儚い。この人は、今この瞬間にも、手折られるかもしれないし、花の首が落ちるかもしれないし、風で散るかもしれない。それもまた美しさだと誰かが囁く。でも、それは、決して、幸福ではない。綾人はそう思った。
「あなたを永遠の花にできたら良かった」
 ぱちん。カーヴェが瞬きをする。柘榴石の目が、丸くなる。そして、またくすくすと笑う。
「それはもう花じゃないだろうに」
 それが真実だった。綾人にとって、カーヴェは花であって欲しくない。
 綾華とトーマと綾人に向けられた優しい目。穏やかな声音。明るい笑顔。ずっと永遠に欲しかった。無くなってほしくなかった。家族から与えられる無償の愛にとてもよく似ていた。
 そして、彼のそれは違う。博愛は全ての人へと向けられる。平等な愛。旅人は言っていた。
『カーヴェは返礼を受け取らないよ』
 だったら。綾人は思うのだ。
「あなたを、」
 その先をカーヴェは言わせなかった。
「それは本当に綾人君が望むことかい?」
 拒絶だ。ぞっとした。冷えていく。ただ、彼はそこにいるのに。
「落ち着いて。僕はそれを言っていない」
「だったら、」
「でもね、発言してしまえば、取り返しのつかないこともある。綾人君はよく分かるだろう」
 取り返しのつかないことばかりだ。何もかも。でも、確かに綾人は今、願った。希った。だから、言うのだ。例えそれが、呪いになろうと。
「あなたには何時迄もここにいて欲しいです」
「……そう」
「私たちを愛してください。あなたの愛は多くの人へ平等です。だとしたら、その対象を狭くすればいい」
「なるほど」
「私たちだけにしてしまえばいい」
 カーヴェは口を閉じた。ううむと唸る。
「綾人君は思ったより強欲だね」
 そうして苦笑する。ああ、それでも、目は優しい。仕方ない子だと撫でられている気さえする。甘やかしている。綾人を、今この瞬間に。
「そこに行ってもいいですか」
「それはどうかなあ」
「あなたはその場にいてくださればいいので」
「そう言われも」
 躊躇う声がする。綾人は立ち上がる。カーヴェは目を伏せて、静かにしている、緩やかに崩された足が、薄い体が、大人の体がある。
 綾人は座る。抱き寄せた。カーヴェは動かない。綾人の指先に触れた、上着の隙間から覗いた、背中の肌は滑らかで、吸い付くように綺麗だ。
 決して、彼に受け入れられてはない。動かない。目を伏せている。元素量が少なくなっているという体は少し冷たい。でも、生きている。
「カーヴェさん」
「なんだい?」
「元素量はどうしたら戻りますか」
「元素を使わなければ自然に回復するかな」
「どの程度、掛かりますか」
「さあ? 沢山使うと一ヶ月はかかる。でも大体は一週間ぐらいで戻るよ」
 それがどうかしたのかい。カーヴェは不思議そうだ。綾人とて、確信はない。でも、この人の肌が冷たいから。
「温めましょうか」
 自分の声が、冷たいものだと分かる。冷え切った、冷たい声だろう。温めるなんて、無茶な声音だ。だが、綾人は残念ながらこの提案を取り下げるつもりはないし、この提案が指すことを分かっているぐらいには大人のつもりだ。たとえ、彼の目に、綾人が子どもに見えたとしても。
 矛盾している。そう指摘してほしくない。でも、天才の彼は気がつくはずだ。それでも、だとしても『発言してしまえば、取り返しのつかないこともある』と言ったのはカーヴェだった。
「残念ながら、僕は綾人君にそうまでされるほどの人じゃない。あと、これは友人達に指摘されたけれど、」
 カーヴェは続けた。
「そう安い人間でもないからね」
 スメールの学者。それだけで、どれほどの価値があるか。そんな事を言う。的外れだと分かっているのだろう。大人として、見ないふりをしている。優しい人だ。
 それはそれとして、綾人は望むものを手に入れる人間だ。
「では、今はこのまま」
「くすぐったいよ」
「はい」
 上着の隙間。開いている部分の、背中を撫でるように、強く抱きしめる。カーヴェの体は動かない。
 動かない、ことに、気がついた。
「……怖いですか?」
 返事がない。発言は慎重になるべきなのだ。だとしたら。
 なんだ、と、綾人は楽しくなった。
「抱きしめられたことがありませんか」
 返事は無い。ただ、体は動かない。恐怖と、緊張と、怯え。気がついてしまえば、すぐに分かる。あんなにも優しいのに、ひとに触れられることが恐しいのか。それは彼が初雪の、なだらかな白であることである。おそらく、この肌には誰も触れていない。
 綾人は笑いたくなる。
「まだ時間はありますね」
 返事は、無かった。


[newpage]


 綾人はしばらくカーヴェを抱きしめていたが、満足したように手を離した。充分に離れた頃にカーヴェは目を開いた。目と目が合う。視線とは雄弁である。カーヴェは思った。
 怖い。普通に怖い。

 カーヴェは恋愛沙汰でそれはもう苦労した。いや、殆どの件でアルハイゼンとティナリとセノが協力してくれたものの、カーヴェの造形と親しみ易さに、人間が狂うことがあった。大方の人たちは良い友人だ。少数の狂気が怖かった。それは幼いカーヴェの心を傷つけたし、大人になっても慣れるものではない。まあ、それらで自分がトランスジェンダーだと思い知ったこともあるが、特にそれ以外の益はなかった。

 故に、つまりである。
 綾人君はどうしてそうなった?
 これに尽きる。推定年下。頑張ってる子だなと微笑ましく思っていた青年に、告白(仮)をされた大人の対応とは。
 しかもいつも援護してくれる友人もいない上に、長期滞在が決定している。綾人君は緩やかに微笑みを浮かべた。うん。これは確かに当主やれるね。政界で生き残れるね。カーヴェは気が遠くなる。色々な要素を繋ぎ合わせた青年である。

「カーヴェさん、ではまた」
「おやすみ、綾人君」
「お風呂に入りますか?」
「後でね」
「残念です」
 ひらひらと手を振る。綾人は流れるように出て行った。手慣れている。いや、うん。まあ、人付き合いはあっただろうな。カーヴェだって恋愛沙汰で色々あったし。マハマトラに突き出した人間の数、無限大。数えてない。なので、推定年下であっても、まあそれなりに未成年ではない綾人にだって色々あるだろう。知らないが。
 本当に知らないが。
「きつい」
 カーヴェは真面目に小声で呟いた。性的趣向が男性だからこそ、真面目に怖いのである。だいたい、綾人との恋愛関係及び肉体関係は望んでいない。ただの仕事相手である。
 本気で仕事だけにしてくれないかな。

 仕事が忙しいとしても定時帰宅する後輩がいるのだ。ティナリだってレンジャー長しながらもカーヴェに会いにシティまで来てくれる。セノは大マハマトラだが七星召喚が強い。いやセノのそれは何。まあ良き友人である。
 とにかく、世の中の大抵の人間は、忙しいとしても他人の為に時間を作ることが可能である。カーヴェはよく知っている。
 明日からが怖い。カーヴェは仕事と散歩と絵を描くこと、ついでに屋敷の外になるべく出ようかなと思った。あの様子だと出来そうに無いが。
 こうしてカーヴェは異国にて一人で強敵とぶつかったわけである。何だこれ。

- ナノ -