🌱🏛/にょたゆり/両片思い/花嫁の祝歌


 近くにいたら傷つけあってしまうから、遠ざけて、逃げて、とにかく距離をとって。そうして互いの息災さえ祈っていればよかったのに。


『花嫁の祝歌』


 アルハイゼンは起き上がると、服を着替えてリビングに向かう。キッチンではカーヴェが朝食にフレンチトーストを作っていた。彼女はアルハイゼンに気がつくと、おはようと声をかけてくる。その声音は同居したての頃よりずっと柔らかくなったが、他人行儀だった。
「おはよう。フレンチトーストか」
「うん。食べたく無いとか文句言うなよ」
「朝から重たいだろう。俺は平気だが」
「僕が食べたいからいいんだよ!」
 カーヴェはぷんぷんと風スライムのように怒りながら、フレンチトーストを皿に盛り付け始めた。アルハイゼンは顔を洗ったりと準備をする。時間になると、カーヴェが机に朝食を並べた。
「ちゃんと食べろよ」
「君がな」
「分かってる!」
 もうとカーヴェはフレンチトーストを食べ始める。カーヴェは細い。軽いのもある。酒場で酔い潰れた彼女を連れて帰る際に、いつも抱いていることを、彼女は覚えているのか。あの、控えめだが、形が良く、柔らかな胸が、アルハイゼンの胸に当たって形を変えるのを、知っているのか。
 カーヴェに劣情を覚えるアルハイゼンを、カーヴェは知っているのか。
「アルハイゼン、そういや君、結婚するのか?」
「は?」
「いや、結婚願望があるかどうかを聞いてきてと言われて」
「そんなもの無視すればいい」
「可哀想だろ! なあ、アルハイゼン、僕のことを気にしなくていいんだ。家賃や貸付のモラは、まあ何とか頑張るから、せめて、君の邪魔にはなりたくない」
 これはカーヴェの優しさだ。アルハイゼンは思う。優しいとは、同時に、何かを傷つける行為である。他人に優しさを振り撒く時、彼女は必ず自らの首を絞首台に置く。または、その柔らかな真白い腕を、人々に幸福を与える家を作る、その手を、目一杯傷つける。そんなことをするなら、優しさなんていらない。アルハイゼンはカーヴェの息災を願う。
「結婚願望は無い」
「ふうん。結婚願望"は"無いのか」
「……何が言いたい」
「好きな人とかは居るんだろうなと思ったんだ。ふふ、君も人間だなあ!」
 恋をするといい。カーヴェは楽しそうに、幸福の形を語る。
「恋をして、愛を知って、人は強くなる。なあ、君には人を愛する資格だって充分にあるんだから、好いた人に告白だってしていいんだ」
 それらは、すべて、カーヴェ自身への呪いでしかない。アルハイゼンはフレンチトーストを食べる。彼女の生み出した甘いそれを、丁寧に食べた。
 カーヴェだって、恋をしていい。愛を知ってもいい。強くなれる。その資格は、君にも充分にある。告白だって、してもいい。
 でも、そんなことを彼女に言って何になる。アルハイゼンは言葉の重みを知っている。カーヴェの認知の歪みはそう簡単に矯正できるものではない。そして、自分が母を幸せにできなかったという過去を、今を生きるアルハイゼンはどうにもできない。
 現在というものが一番重要である。アルハイゼンはそう思う。常に先を、未来を見つめるカーヴェは、それでいて、常に暗い過去を胸に抱いている。
 その目が強く輝くから、アルハイゼンは確かに彼女がまだ堕ちてないとわかるけれど、それだけだ。
 アルハイゼンはカーヴェの在り方を変えられない。人間は人間を決定的に変えられない。人間を変えるのはいつだって事実だけだ。
「ご馳走様」
「あ、うん。片付けはしておくよ。もう出るだろ」
「ああ」
 そうして出勤するアルハイゼンを、カーヴェはひらひらと手を振って見送ってくれた。
 アルハイゼンは、確かにカーヴェが好きだ。愛している。でも、彼女にそれを伝えることは難しい。アルハイゼンは一度、彼女と別離を経験した。それを恐れているのではない。ただ、二度と同じ轍を踏まないようにしているだけだ。

 教令院でいつもの執務を終え、帰宅する。途中、バザールで酒を買って、家に帰ると、カーヴェが夕飯を作っていた。肉を焼いているらしい。鼻歌を歌いながら料理を作っている。歌は、結婚式のものだ。花嫁の美しさを歌う、稲妻の歌。アルハイゼンはそれを歌うカーヴェをじっと見る。ふと、カーヴェが気がついてこちらをみた。
「戻ったんだな」
「ああ、今帰った」
「夕飯ならすぐだぞ、風呂も用意してある」
「そうか」
「なんだよ、不満そうだな」
 そうだ、不満だ。その歌を歌う君が嫌だ。だってそれは、男女の結婚を祝う歌で。決して、アルハイゼンとカーヴェが結ばれた時に歌われるようなものではない。
 カーヴェの気持ちをアルハイゼンは知らない。アルハイゼンの気持ちも、カーヴェは知らない。カーヴェには、好きな人がいるのだろうか。その想像に、アルハイゼンはぞっと体が冷えていく。
「アルハイゼン?」
 その美しい金髪に、花をさすのか。花嫁になるのか。その美しいかんばせに、朱を差すのか。花嫁になるのか。その美しい声で、名を呼ぶのか。花嫁になるために。
「アルハイゼン、本当にどうしたんだ」
 手を洗い、拭いて、近寄ってきた彼女は、そっとアルハイゼンの目元を撫でる。
「泣いてるのか」
 ただ好きになっただけなのに、ただ好きになっただけだから、アルハイゼンは、カーヴェと恋と愛を語れない。
 本当に大好きだから。
「アルハイゼン、君の好きな家に入って休もう。少し疲れてるんだろ。もう週末なんだ。ほら、荷物を持つから」
「カーヴェ、」
「はいはい。わ、酒じゃないか! また君は一人で飲むのか? 酒場に行けばいいのに」
「カーヴェ、カーヴェ、」
「ったく、何だよ」
 カーヴェがアルハイゼンを見る。そして、アルハイゼンの目からぼろぼろと涙が溢れた。カーヴェはぎょっとしたものの、すぐにアルハイゼンの頭を抱き寄せた。
「お疲れ様。さあ、もう君の家だ。ゆっくりするといい」
「う、ん、」
「先輩がいくらでも慰めてやろう! だから、泣きたい時はたくさん泣くといい」
 カーヴェの背中に、ゆっくりと手を回す。体の線をなぞるように、しっかりと抱きしめる。頭は抱き寄せられたまま、涙は彼女の服に吸い込まれていく。
 好きだ、と言えたらよかった。この行為はただ"先輩"から"後輩"に向けたものでしかない。
 なあ、カーヴェ、俺は君が好きだよ。
 そう、言いたかった。言えればよかった。言ったら、全てが終わってしまう。カーヴェが自分を幸せの勘定に入れない限り、彼女はアルハイゼンの好意を素直には受け取れない。歪んで、いびつにして、どうするか、見当もつかないぐらいに、彼女の認知は根本から潰れていた。誰がそんなことをした。一因は、アルハイゼンにもある。それが、悔しかった。苦しかった。
 ただ、好きだと、言いたかった。
「なあ、アルハイゼン」
 夕飯は君の好きなキッシュだよ、と。

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