アルカヴェ/にょたゆり/君は生きている/ほのぼの/朝から晩までと同じ二人です。


 カーヴェの時計はいつも正確なのに、それでいて彼女自身はその時計を持ちながらにして、手を差し伸べる。正確さなど等に知っている。時の重さも知っている。だけど、彼女はその手に残る金子より、浮かぶ他人の幸福を選ぶのだ。
「アルハイゼン、どうかしたのか」
 本を読む手が止まってる。カーヴェがお茶の用意をしながら言った。アルハイゼンは、別に、と濁して、本に視線を戻した。たまたま見つけて購入した伝記は、稲妻の妖怪たちへの憐れみと、親しみに満ちている。時を経て、彼らは稲妻で根付いている。著者はこう言う。
「『まつろわぬものたち』」
「うん?」
 カーヴェがきょとんとする。茶の用意は整っていた。何でもない。アルハイゼンは言い切って、本を閉じた。
 カーヴェが用意した茶菓子はポルボロンだ。食べるとほろりと崩れる焼き菓子は、甘いチャイともよく合った。モンドからきた学生が教えてくれたんだよ。カーヴェは楽しそうに言う。
「美味しいだろう? 僕は好きだなと思ったんだ」
「そうか。君が好むものをその女はよく知っていたらしい」
「もう。そう言ってあげるなよ。たまたまさ」
「その偶然とやらで君が迷惑を被った回数は?」
「最悪な人生なんだ。悪かったことが幾つかなんて数えてないよ。でも全部覚えているさ」
「君は難儀だ。忘れるのも人間の生き様だろうに」
「忘却が心を癒すこともある。でも、僕は忘れない。僕と関わって地獄に落ちた人々を忘れはしないよ」
「君は幸福を呼ぶとは思わないのか」
「僕は今まで迷惑ばかり掛けてきたと思うけれど?」
「俺はどう思う」
「君と出会えた幸運は、君を不幸にした悪運だ。ごめんね」
「俺は君と一緒にいて何の問題もない」
「迷惑ばかりだろうに」
「君の迷惑は目に余る。それでも、価値は高い」
「ふうん。よく分からないな」
「自分のことになると君はすぐ思考を停止する」
「一種の防衛本能だと思ってくれ。考え続けることだけが生きる事じゃない」
「それでも君はずっと深い視野を持つ」
「君の方が視野は広そうだけど」
「俺の見えないものを、君は見ているんだよ」
 おいで、とアルハイゼンが言うと、カーヴェはそっと隣に座った。お茶を手に、こてんと体を預けてくる。小さくて、細い体。程よく凹凸のある、芸術作品のようなとびきり美しいおんなだ。
 アルハイゼンは彼女を引き寄せて、ティーカップを抜き取ると、きゅっと抱きしめた。柔らかくて温かい。カーヴェが、苦しいと言う。それでも、アルハイゼンは彼女を抱きしめた。愛しいおんなに、今日もまた恋をして、愛を知る。
「君はこの巣をどう思う?」
「星座が鳥だからって家を巣に例えるなよ」
「この家に住み続けたいか」
「いつかは出ていくさ」
「それを俺が引き止めても?」
「まずは僕は君と対等になりたいのさ」
「ならば借金を解決しなければな」
「うん」
 だから、それまではよろしく。カーヴェはアルハイゼンの腕からなんとか手を自由にして、彼女の背中に小さな手を回した。その手の温もりと、カーヴェのふふとした笑い声に、アルハイゼンは凡庸な幸福を噛み締めたのだった。

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