手を伸ばせば掴める距離。それは忍びにとっては殺せる距離であり、殺される距離である。

「…」

そんな距離に私は私の蝋燭の火に照らされた部屋の中で兵助を座らせている。否、兵助が自らそこに座った。豆腐ばかり好む男らしく、真白な肌をしている。その肌は真黒な髪と惹きたて合い、どちらもより際限ない対極の境地に表(あらわ)ろうとしている。

「…」

そんな兵助は私の手の届く距離に座ったきり、動こうとしない。用は何なのだろうか。この男は効率を好み、用がなければ、友人を訪ねるより座学の書を読み鍛錬に励むだろう。そんなことは一年時から変わらないのだから、何と無く笑ってしまいそうだ。

「…」
「どうした兵助」

私は好い加減どうしたというのだという意を含めて、そう言い放った。しかし兵助は喋らない。如何したものか。

「一体全体どうした」
「…」
「何か用があるのだろう」
「…」

兵助は視線を私から逸らしたまま、何も喋ろうとしない。何も言う気がないのだと私は思うと、勝手にすればいいさと思い、変装道具の手入れをすることにした。
変装道具の手入れは人の居る処で出来るものではないが、この兵助という男や雷蔵、八左ヱ門、勘右衛門の前ではそんな思考は馬鹿らしい。彼らは私の真似をすることはない。否、そのまま丸ッと同じことをしようとしない。それは私と同じでは私を越えられぬということをよく分かって居るからだ。真似をするならば、彼らそれぞれに似合う方法を私に教わる方がずっと身のためになることを良く分かって居るからだ。だから私は彼らを尊敬し、信頼し、目の前で道具の手入れをする。勿論、忍びなのだから警戒を全くしないなんてことはないが。
嗚呼、だからこそ兵助の不可思議なこの行動が気になるのだ。

「…さぶろう」
「何だ」

兵助が此方を見た気配を感じ、私は手元から視線を外す。そして兵助の真黒な瞳と視線を合わす。その視線は何も語らず、相変わらず優秀な秀才だと思う。天才と秀才と、対比、評価される私と兵助は案外仲が悪く無い。それはお互いがお互いに違いすぎるからだろう。少なくとも、私はそう思っている。

「さぶろう」
「どうした兵助」

兵助の声はやはり何も意図を感じず、抑揚すら感じず。しかし、今日の今の声は、そんな棒読みより朧気だ。

「何もないんだ」
「…」
「何も、何も無いんだ」

そこで私は兵助の用がわかった。

「そうか」
「俺には何もない」
「そうか」
「三郎ならば、」

何かを持つ三郎ならば、と兵助は繰り返す。
忍びとして優秀であり秀才なこの男はたまに優秀な模範でありすぎて、己を見失う。そして実に馬鹿らしく、この男は己と対比される私ならば何か指南してくれるだろうと来るのだ。
兵助は勘違いをしている。私はむしろ兵助よりも己が分からない。変装に変装を重ねた私は、もう己の顔すら上手く思い出せない。そん私に指南を乞うなど、まさにこの男が軽視する“無駄”である。

「兵助、お前ならば分かっているだろう」
「分からない」
「目を逸らすのか」

私の言葉に、兵助の瞳が揺らぐ。感情の吐露の片鱗が見え隠れし、何時もならば絶対に臭わせぬ、危う気な気配を出していた。

「だったら、私は誰に乞えばいいのだ」
「誰に乞うこともない。お前は好い加減に自分の心情を軽視し過ぎるのをやめるべきだぞ」
「忍びに己の心情など不要だ」
「確かに、模範的にはそうだろう。しかしそんなことを完全にやってのけるなど、無理なことだ」
「それは」

兵助は目を伏せる。それは認めたく無いが、認めるしか無いという諦めの表現だ。

「そうかもしれない」
「良し、そうなら高野豆腐でも食っておけ。持ち歩いているだろう」
「あれはおやつだ」
「別におやつを今食ってはならないわけじゃない。食べたいなら食えという話だ」
「そうか」

兵助は立ち上がり、私の手の届く範囲から離れ、戸に手をかけた。

「有難う三郎」
「もう無いようにしろよ」

分かっている、と兵助は笑って私の部屋から出て行った。まったく、

「面倒な奴だ。」





子羊は真夜中にやってくる
(私はお前の相談相手なんて真っ平だ)



8.9(鉢久々の日)用の鉢くくのつもりでした。コンセプトは久々知君の片思いでしたが、薄っすらすぎました


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