さみくも/惑いの海


 さざなみの音がする。

 この本丸には海がある。どうやらここの審神者は、海と共に育ったのだとか、何とか。
「詳しいことは誰も聞きません」
 五月雨は言う。それもそのはず。人の精神世界とも言える審神者の本丸に、海が形成されるなど、如何様か。その異常さを、先に励起していた五月雨が知らないはずはない。

 村雲は静かに息をした。潮風が肺を満たす。海はどこまでも続いていた。

「泳ぐにはまだ寒いですね」
「雨さんは泳いだことあるの?」
「泳ぐ、というより、歩いたことなら」
「ふうん」
 村雲はゆっくりと海に向かう。ざざ、波の音。
 ぱしゃん、村雲が足を浸した。靴が濡れる。
「雲さんは、怖くはないのですね」
 五月雨の、意外そうな声がする。村雲はううんと、否定した。
「錆びそうだよ」
「この身は肉の器ですから」
「うん」
 知ってる。だけど、恐ろしくはなる。
「この身は、錆びないの?」
「ええ。衰えることもありません」
 不思議だ。村雲が眉を下げると、五月雨は、ぱしゃんと村雲の隣に立った。眩しそうに、春の太陽を見上げている。
「空が青いですね」
「うん」
「雲さんは不安ですか」
 不安。村雲は考える。五月雨がいるのに、何の不安があるというのか。あるとすれば、五月雨の身に刀剣破壊が起きないか、だけが、不安だった。
 何もかもが、五月雨を中心に回っているような気さえする。
「ねえ、雨さん」
 そう言いながら、村雲は海に入っていく。あ、と五月雨の小さな声が聞こえた。だが、そのまま、ずぶずぶと海の中に入って、振り返った。

 遠かった。空も、太陽も、五月雨も。

「雨さんが思うより、俺は弱いよ」
 あなたの評価は、この身に余る。そう告げれば、五月雨は手を上げかけて、おろした。掴めないと、分かったからだ。
 二口は、あまりに、遠かった。
「そうでしょうか」
 五月雨は告げる。
「雲さんは、私の……」
 そうして口を閉ざす。その先は言えまい。村雲はふわりと笑った。残酷なのは、何方だろう。物が物に執着するとは、如何様だろう。

 好きってなあに。

 いつか、何時だったか。何処かの誰かに、聞いた気がする。
 五月雨が口を開いた。
「帰ったら、湯浴みをしましょう」
 だから今は、海に入ってみませんか。
 五月雨が微笑む。村雲は、もう入ってるよと笑って返した。二口で海に飛び込む。

 青い海。水中で目を開けば、五月雨が近づいてきて、手を繋ぐ。そのまま口付けられて、村雲は繋いだ手をきゅっと握りしめたのだった。

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