さみくも/忘れられない瞬間


 忘れられない瞬間。

 糸の切れた瞬間、村雲は、あ、と分かる。しまった、やりすぎた。村雲はとさりとその場に倒れ、意識を失った。

 刀剣男士とは、言うなれば兵器である。故に、バグは到底許されるものではない。だが、刀剣男士とは、不可思議である。神であり、妖怪でもある。一律、同じ神降ろしなど、人間如きにできるわけがない。
 矛盾を孕むそれを、双方の理解と歩み寄りにより受け止め、刀剣男士としてその場に立つ。ヒトとそれ以外との契約。兵器であり、神であり、妖怪であること。それを学んだ者だけが、刀剣男士を励起させらる。

 とまあ、そういうわけである。

「雲さん、起きましたか」
「……雨さんっ!」
 びっくりした。村雲が息を吐くと、五月雨は苦笑した。
「また倒れたそうですね」
「まあね、元々、俺の器は不安定だから、仕方ないかなって」
「然し、対策はすべきです」
「だからこそ、俺が倒れたら雨さんに報せが行くんでしょう。ごめんね」
「私は構いません。雲さんは軽いですし」
「それは雨さんが鍛えられてるだけだよ……」
 そこで薬研がやって来て、怪我等は無いと知らせてくれる。いつものバグだなと、すっぱり言い放って、じゃあ今日はゆっくりしてなと部屋を出て行った。
「でもどうして俺はこんなに不安定なんだろう。二束三文だから?」
「それは違うと思いますよ」
「じゃあ、悪だから?」
「それも違うかと」
「うーん。雨さんはどう思う?」
 そうですね。五月雨は柔らかく言った。
「私が雲さんを離さないと、決めたからかもしれませんね」
「何それ」
 変なの。村雲がへらりと笑うと、変かもしれませんねと五月雨はくすくす笑った。

「願いってのは、馬鹿にならないよ」
 亀甲が言い放つ。五月雨が任務で抜けた部屋で、村雲の看病に亀甲が来たのだ。彼は甲斐甲斐しく世話をしながら、村雲の言葉に耳を傾けてくれた。
「そうなの?」
「特に、ぼくらは人の願いの塊(つくもがみ)だ。そんな物が願うんだから、相当だよ」
「そうかなあ」
「そんなに五月雨くんの事が信用ならないの?」
「信用してるよ! 信用してるから、雨さんが俺を必要としたことが分からないんだ」
 お腹がキリリと痛む。亀甲が、はいと湯たんぽを渡してくれた。村雲は湯たんぽと共に布団に入る。温かった。
「ぼくらは戦う為に励起した。それなのに、きみは戦うどころじゃない」
「うん」
「だったら、何かが影響を与えたとしか考えられないよ。それがもし、五月雨くんだとしたら」
「雨さんが、危ない?」
「そうなる。だけど、本丸は大所帯だからね。戦線を諦めて、家事に専念することも選択肢の一つではあるよ」
 きみは戦いたいかい。そう言われて、村雲は黙る。戦いたいか、戦いたくないか。刀剣男士として、どうあるべきかは分かっている。でも。
「戦いたくない。俺は、善悪を決められない」
「そう」
「でもさ、いつか修行には行きたいんだ」
「そうなの?」
 だってと、村雲は笑う。
「俺にとっての本当を知りたい、からさ」
 正義とは、悪とは、何なのか。在りし日の思い出を、ゆっくりと咀嚼したい。漆塗りの箸で摘んで、こくりと嚥下したい。

 忘れられない瞬間ってあるでしょう。

「俺ね、この目でこの本丸で、雨さんを初めて見た時、こんなに美しいヒトがあるのか、って驚いたんだよ」
 雨さんには内緒だけどね。しぃと村雲が指を口元に当てると、そうなのかいと亀甲は表情を和らげた。
「それからずっと、この本丸で出会う刀は美しいばかりで、本丸自体も美しいばかりでさ、俺、びっくりしちゃった」
 ここはきっと、いつか夢見た楽園だったんだ、と。
「ねえ、亀甲。俺はやっぱり、修行に行きたい」
 この目で、初めて全てを見て判断したいんだ。
 その言葉に、亀甲はそれならと口にする。
「それこそ、戦わないとね」
「うん。そうなるね」
 刀剣男士として、本当に正しい在り方かは、分からない。それでも、村雲はこの目で、忘れられない全てが、見たかった。

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