さみくも/呼吸


 鋭い一線。かくは遠き理想郷を目指し。遥かは彼方、貴方と共に。

 血を拭う。村雲はその場に立つ。亀甲と三日月がこちらを鑑みている。判断をするのは、今ここしかない。
「帰還するよ」
 まだ敵将は討てていない。だが、部隊はボロボロであった。新人として初めて隊長職を任されたのだ。ならば、やり通さねばならぬ。村雲は、これ以上は危険だと判断した。

 動けない後藤を背負い、帰還する。長義と南泉が助け合って歩き、亀甲と三日月が周囲の注意を怠らないように声を張り続けた。

 本丸に帰還する。ざわり、夏の香りがした。暑いな。村雲は思う。
「第二部隊、帰還したよ」
 声に出せば、近侍の歌仙が手入れ部屋への案内と、報告の両方を引き受けてくれた。村雲は風呂へと押し込まれる。なにせ、この本丸には手入れ部屋が三つしかないのだ。後藤、南泉、長義の重傷組で手一杯だった。

 軽傷の村雲は傷口を清潔な水で洗った。亀甲が持ってきた包帯とタオルで止血を済ませ、風呂を出る。髪を乾かす暇がなかったな。村雲はささくれだった気持ちで、進む。

 腹の空くままに食堂に入ると、お帰りと声をかけられる。獅子王が鶴丸とオセロをしていた。横にはチェス盤もある。いつも酔狂で明るい刀たちだが、何だかんだで地頭がいい。こういった遊戯は得意らしかった。しかし食堂で遊ぶのは如何なものかと首を傾げると、太鼓鐘がお待ちどうさまとずんだ餅を持ってきた。どうやら今日はずんだ餅の解禁日らしい。
「あ、村雲さんお帰り!」
「太鼓鐘くん、ただいま。俺も何か食べたいけど……何がある?」
「ずんだ餅を配ってるところだぜ! そこに座っててくれよ、冷茶と一緒に持っていくから!」
「ありがとう」
 そうして待っていると、ようやくじくじくと腹が痛んできた。出陣は、失敗だった。だが、途中帰還は必要だった。村雲は正しい判断をした筈である。あまり、自信は持てなかったが。

 ずんだ餅と冷茶をもすもすと食べていると、雲さんと声がかかる。え、と振り返れば、五月雨が立っていた。
「わ、わん?!」
「わん。そうです、私です」
「え、遠征じゃ……」
「さっき終わりました。隊員なので報告義務もありませんから。で、怪我の具合は大丈夫ですか」
「それは大丈夫。止血したし、こうして物も食べれるし」
「そうですか。手入れ部屋が空いたらすぐにお知らせしますね」
「雨さんはずんだ餅、食べないの?」
「遠征先で甘味を食べたので、あとにしようかと」
「ずんだ餅は出来立てが命って聞いたけど」
「燭台切さんたちと交渉してきます」
「そうしてね」
 雨さんは何を食べたんだろう。そう思っていると、鶴丸と獅子王のオセロ戦が僅差で鶴丸の勝利となったらしい。そのまま囲碁に突入したので、いい加減部屋に行けと大倶利伽羅に注意されていた。

 ずんだ餅と冷茶を食べ終わると、ふらりと手入れ部屋に向かう。その途中、松井がやあと声をかけてきた。
「あ、松井」
「やあ、手入れ部屋かな」
「うん。すぐわかる?」
「顔色が悪いし、止血してるのもすぐ分かるからね」
「血に関しては松井の得意分野なだけな気がするけど」
「そうかな」
 そのまま、松井が村雲の手を取る。ああやっぱり。彼は苦笑した。
「爪紅がぼろぼろだね」
「あ、本当だ。手入れで直るかな」
「直るけど、爪紅を綺麗に保つ努力もしようね」
「うー、わん」
「不満なのかな?」
「それなりに」
 仕方ないね。松井がそっと村雲を部屋に招き入れた。部屋には加州と次郎がいて、どうやら爪紅の手入れや化粧をしているらしかった。
「あれ、松井。どーしたのよ」
「珍しい顔だねえ!」
「どうにも、爪紅の基本を教えてくれる?」
「村雲に?」
「そう」
「え、でもそんな、俺すぐ手入れになるし」
「ははあ、成る程ね。ほら、村雲、こっち来て」
「わふっ」
 加州がいくつもある爪紅のストックから、桃色に近いものを取り出すと、除光液と共に揃える。村雲の爪紅を丁寧に全て落としてから、ベースを塗り、桃色の爪紅を塗った。最後にトップコートを塗れば完成だ。
「これ、俺の色じゃないよ」
「そりゃね」
「でも、ありがとう」
「どーいたしまして。ま、手入れもちゃんと行ってね」
「歩けないなら次郎ちゃんが運んであげるよ?」
「それは遠慮するよ」
 松井がひょいと村雲の手を覗き込む。村雲は、見て、と手を開いた。
「加州って器用だね」
「そうだね」
「松井もしばらく面倒見たからね」
「先生さ」
「そうなんだ」
 じゃあ手入れ部屋に行ってらっしゃい。松井たちと別れて、手入れ部屋を目指した。

 夏のじんわりとした暑さの中。手入れ部屋の前に五月雨が座っていた。ひょいとこちらを見上げた五月雨の目は澄み切って美しく、村雲はどきりとした。
「おや、爪紅を塗り直したのですね」
「え、あ、うん」
「その色も悪くないですね」
「そうかな」
「ええ、そうですとも」
 手入れ部屋はそろそろ空きますよ。五月雨はそう言って、村雲を隣に座らせた。
 そこでようやく、村雲は、呼吸が出来たような気がした。

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