さみくも/簡易式幸福論


 我らに幸福あれ!
 叫ぶのは、簡単だったか?

 目覚める。村雲はそっと隣の布団を見る。既に畳まれて、隅に寄せられたそれは、ぬくもりを一欠片も残していない。すんと、鼻を鳴らすと、障子戸の隙間から朝露の匂いがした。
 雨さんは今日も早いな。村雲は、ぼんやりする頭で、のそのそと朝の身支度をする。この時間帯ならば、水道も空いているだろう。
 身支度を整えて、部屋に戻って、布団を畳む。隅に寄せて、しっかり日が登ってから押入れに仕舞わなければと思う。通りがかりに見た本日の出陣表には、五月雨の名前があり、村雲は休暇という名の家事手伝いとなっていた。

 厨に顔を出すと、おはようと旧知の亀甲が声をかけてくる。どうやら彼も厨番の手伝いに来たらしい。助かるよ、歌仙はそう言って、味噌汁を作るようにと指示を出してくれた。

 村雲がせっせとネギとミョウガの味噌汁を作っていると、にわかに本丸が騒がしくなってくる。時期は初夏。爽やかな朝だった。
「おっはよー!」
「おはよう次郎。早速だけど頼めるかい」
「任せて!」
 次郎がせっせとおひつを運ぶ。厨番は意外と力仕事が多い。そのため、背が高く力の強い刀が必ず一口は手伝いに回されていた。
 腹がキリキリと痛む中、やっと人数分のネギとミョウガを切り終えた頃に、玄米が炊きあがる。白飯もいいが、玄米も落ち着くものだ。村雲は炊きたてのご飯の匂いが好きだった。

 朝餉の席に向かうように言われて、村雲は食堂に向かった。定位置に座ると、すっと朝露の匂いがした。
「雨さん、おはよう」
「雲さん、おはようございます」
 よく眠れましたか。ふわりと言われて、よく眠れたよと村雲は目尻を垂らした。
「今日は出陣なんだよね」
「遠征ですが、隊長を任されています」
「そっか、気をつけてね」
「雲さんこそ、私を気にしすぎて、お腹を痛めないでくださいね」
「うっ、それは、そうだね」
 言われると腹が痛い気がしてくる。神経のものだな。以前薬研に言われ、渡された胃薬を飲むべきかもしれない。
「雲さん、今日の本丸は晴れるそうです」
「あれ、そうなの?」
 この本丸の天気はランダムに変更される。時折審神者の手も入るが、かみさまたちの拠り所、天気ぐらいは未知数でもいいじゃないか、とのことだった。
「きっと洗濯日和ですよ」
 白いシーツが青空に映えるでしょうね。五月雨はそう言って笑っていた。

 洗濯当番は加州と大和守だった。獅子王や鶴丸といった、所謂刀派無し(諸説ある)の刀に声をかけたようで、様々な顔が本丸中の洗濯物を集めて洗って干していた。
 手伝うよ。そう声をかけると、助かると加州が顔を明るくした。
 たったかとシーツを集め、衣類を集め、数機の洗濯機をフル稼働する。乾燥まで出来てしまう二二〇五年製だが、晴れた日にはお日様の香りがいいよねと加州と大和守は外に干すことを譲らなかった。
 お日様の匂いは好きだな。村雲はそう思いながら、すっと腹の痛みが消えていることに気がついた。
 雨さんは、きっと無事に遠征を務めたことだろう。晴れ空の下。カラフルな洗濯物が、ひらひらと舞っていた。

 遠征部隊が帰ってきたのは洗濯物を取り込み、各部屋に配った頃だった。門まで迎えに行くと、五月雨が気がついて、笑ってくれる。村雲は嬉しい気持ちを隠さずに、雨さんと名を呼んで駆け寄った。
「雨さん、おかえり!」
「只今戻りました。部屋で待っていてもらえますか? 報告の後で渡したいものがあるので」
「へ?」
 いいけど、何だろう。首を傾げると、五月雨は秘密ですよと楽しげにしていた。

 雨さんのことだから怖いものではないはずだ。村雲は部屋で洗濯したものを片付けながら思う。五月雨への信頼は、何よりのものだ。だから、腹が痛くなることもない。村雲はぽやと惚けたような心地で待っていた。

 とんとん。部屋に戻ってきた五月雨に、改めておかえりと告げると、ただいまですと返ってくる。
「それで、お土産なのですが」
「え、お土産?」
「こちらを」
 それは羊羹だった。池の中を鯉が泳ぐ羊羹は見るだけで美しい。すごい、と村雲は目を輝かせた。
「これ、お土産? 俺なんかが、いいの?」
「ええ、雲さんと食べたいと思って買ったので」
「うれしい、な」
「喜んでいただけて何よりです」
 五月雨は、湯浴みと夕餉を済ませてからですよと言う。村雲は勿論と頷いた。かわたれ時、初夏の匂いが、部屋に舞い込む。

 ああ、叫びたいほどに幸福だ!

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