キバネズ/氷の妖精、春を見る


 キルクスの海を見る。段々と空気が春めいてきたが、ここの海ではそんなことは知るかと、流氷がギシギシと音を立てていた。
 スパイクタウンが暖かくなるのは、もう少し先だろう。ネズはふうと息を吐いた。白い息に、未だ残る冬を感じた。
 流氷の隙間、青の迷宮、此処には魔力が宿る。ネズはじっとそこを見た。おいで、おいで。手招きするのはポケモンか、この世ならざるものか。ブルンゲルだって、プルリルだって、なんだっていいか。ネズは目をそらした。おれはお前に用なんて無いのだ。

 ザクザクと名残雪を踏みしめて音を立てながら、スパイクタウンへの道を歩く。不安はなかった。春は確かに近付いている。キルクスより早く、ナックルより遅く。淡々と春の息吹は近づいている。その事実に、今更文句を言うつもりはない。単にそういう土地柄なのだ。ネズは鼻歌を歌う。存外、気分が良かった。
「例えばそう、あなたが不幸だとして」
 記憶上の誰かが言う。ネズの口から、小さな囁きが漏れた。
「わたしにはひとつとて、関係ないわ」
 ふわと、花の香のような匂いがした。

 突風が吹いた。おっととよろける。いくらネズが細いとはいえ、地に崩れ落ちはしない。ネズが空を見上げると、影が差し、アーマーガアタクシーが降りてくるところだった。

「ネズ!」
 タクシーを無理やり降ろしたのはキバナだったらしい。こんな寒い中、薄着で何をしてるんだ。そう呆れ返った声に、散歩ですよとネズはけろりと答えた。それに、薄着に関してはキバナには言われたくない。そのような軽装だった。
「例えば、そうだね、おまえがジムリーダーじゃなくても」
「え?」
「おれはきっとおまえに恋をするよ」
 瞬間、ぼっと赤くなったキバナに、してやったとネズはくつくつ笑って、タクシーに乗り込んだ。
「タクシー、ナックルシティまで頼みます」
 特売のチーズがあるんですよ。そう続けたネズに、キバナは、ああもうと、顔を手で覆った。
「オレさま、もっとかっこよく迎えに来たかった!」
「残念でしたね」
「後で覚えてろよ」
「知りませんねえ」
 タクシーはナックルシティへと向かう。流氷が遠ざかり、スパイクタウンを通り過ぎる。ああ何て、甘やかな時間だこと。ネズは奥底から笑いがこみ上げてきた。
「何で笑ってるの?」
 きょとんとするキバナに、ネズは答えた。
「仕合せなんですよ」
 本当に、心の底から仕合せだ。ネズの滑らかな声に、キバナは、機嫌が良いなら越したことはないと、思うことにしたようだった。

 ああ、ところで。ネズは問う。
「キバナこそ薄着じゃないですか」
「ナックルでは丁度いいの」
「じゃあおれも良さそうですね」
 さて、ナックルシティは目の前だ。

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