キバネズ/いつからだなんて教えないわ
恋しいと願うこと。恋い焦がれるということ。全て、キバナからは遠かった。恋愛で苦労したことなんてなかったし、そもそも恋愛よりもバトルや勉強の方が楽しくて仕方なかった。
だから、恋に落ちた時に、それが並大抵の努力では叶わぬものだと思い知った時、キバナは正しく絶望した。
その人は猫背で、薄暗くて、ひっそりとしていて、案外礼儀正しくて、バトルで一変する。自分も普段とバトルとでは印象が変わると言われ続けてきたが、彼ほどではないだろう。
そう、彼だ。彼は男で、キバナもまた男だった。そもそも、彼の視界にろくに自分がうつったことがない。いつも目を逸らされるし、いつも呆れた顔をしている。目と目が合ったらバトルできるのに。キバナは悔しかった。
その男は、キバナと激闘を繰り広げた仲だった。賢く、美しく、激しく、力強い。あくタイプの能力を極限まで高め、相手の能力などを利用した狡賢いバトルスタイルは、相当な頭の出来が問われるものなのに、彼は歌いながらこなしてみせた。
ロックシンガーで、あくタイプの天才で、キバナと並び立てるほどの相手。そうだった、それだけなら、まだ良かった。
だが、彼はもう現役を引退した。キバナと確かに合わしていた目は、合わなくなった。会うこともなくなった。彼を引き止める術を、恋した相手に声をかける勇気を、キバナは一瞬にして失った。それも、自分の勝利で、幕を引いた。
あんまりだ。あんまりだった。こんなにも理不尽だと思ったことはなかった。バトルとは勝敗が必ず決まるものだ。なのに、決まったことが、勝利したことがこんなにも息苦しくなることだとは思わなかった。
まるで水の中に重りと共に沈むような苦しさだった。ただ、また戦いたい。プライベートを知りたい。彼がこれまで出会った人の中でも、これから出会う新たな人々の中でも、一番になりたかった。
キバナは誰かの一番にはなれたことがある。でも、キバナが一番を決めたことはなかった。これは未知数だ。キバナはぐるぐると考える。未知を人は嫌がる。怖がる。キバナはそれを恐れたことはあまりない。でなければ、ダンデに挑み続けるなんてことはできなかった。
怖いんだ。キバナは思いつく。彼に会うのが怖くて、彼の一番になれないことが怖くて、それならまだ、元同僚というポジションでいたいとまで思うのだ。
「オレさま、いつのまにこんなにも弱くなったんだろ」
バウタウンのパブ。ルリナに相談すれば、あのねえと呆れられた。
「恋をすれば皆そんなものよ」
「恋なんてしたことねーもん」
「今、あなたは恋をしてるんでしょ」
大切なのは今だ。ルリナは繰り返す。
「あなたが一番になりたいのなら、相応の努力をしてから相談なさい」
今のあなたはバトルから逃げてるだけじゃない。ルリナの言葉はナイフのように鋭く、柔らかく切り込んでくる。わかってる、分かってるのに、こんなにも息苦しい。
気がつけばタクシーでスパイクタウンに来ていた。来たってしょうがないのに。キバナは目を伏せる。また、目を逸らされたら。また、返事をもらえなかったら。バトルすらも許されなかったら、どうしよう。キバナは震えていた。
「おまえ、何してるんです」
シャッター前、ネズが普段着らしきハイネックにコート姿で買い物袋を抱えて立っていた。その薄氷のような目がキバナを捉えていた。あ、目が合った。キバナはぽかんとした。こんなにも、簡単なことをオレは何故出来なかったのだろう。
「ネズに、会いたくて」
「はあ」
「あのさ、時間ある?」
「夕飯の支度があるので、時間はそうありませんが」
おまえどうしたんです。ネズが不思議そうにキバナを見上げている。ヒールのない靴、いつもより彼の目線は低かった。
「まるで一人残されたエレズンのような顔ですよ」
ひどい顔。ネズはくつくつと笑った。ひでえの、キバナはくしゃりと笑った。
「なあ、オレさまとバトルしてくれる?」
「やりませんよ。引き継ぎがなかなかうまくいかなくて暫く忙しいんです」
「そっか。じゃあ、いつかバトルしてくれるか」
「いつか、ならいいですよ。全てが落ち着いたらおまえを木っ端微塵にしてやりましょう」
負けっぱなしは嫌なんでね。ネズはにやりと笑う。キバナはその笑みに、あくタイプ使いらしいと笑った。
「あと、さ」
「なんです?」
「オレ、オマエが好き」
ぱちん。薄氷の目がまばたきをする。そして、次の瞬間にはゆるく細められた。
「奇遇ですね、おれもですよ」
じゃなかったら、声なんてかけませんから。そんな言葉に、キバナは確かに彼の大切なものになっていたのだと初めて知ったのだった。