キバネズ未満/混線/これからキバネズになる話。まだ足し算です。続きはたぶんないです。


 大切なものが両の手からぼろぼろと落ちていくのを、ただ見ていることしかできなかった。それが、悲しくて、虚しくて、辛くてしかたがなかった。
 だから、大切なものを選別するようになった。スパイクタウン、マリィ。それだけと決めて、歌とバトルに走った。走って、走って、がむしゃらに日々を過ごしていたら、いつの間にかマリィが育っていた。健やかに育った彼女はおれの手を取り、背中を撫でて、微笑んだ。
「もういい、もういいんだよ、アニキ」
 だからおつかれさま。そう言われて、おれはぼろぼろと、かつて落とした大切なもの達のように、涙を流した。

 ひとしきり泣いた夜。明けた朝。まだ若いマリィにジムリーダーの全ての責務はまだまだ重すぎると、冷静に判断した。まだ、自分の役目は終わっていない。区切りはついたが、それだけだ。決意を新たにおれはベッドルームから出た。

 ミュージシャンとしてライブの予定を詰めていると、よっと声をかけられた。ここはスパイクタウンの最奥、おやこんな所に物好きがと振り返れば、キバナが立っていた。
 太陽のような男だ。常々思っていても、言いはしないことを脳裏で繰り返す。彼は太陽だ。そして、嵐だ。台風だ。
「バトルしてくれ!」
 頭を下げられて、ぽかんとする。バトル、おまえと?そう繰り返せば、当たり前だろと頭が上がった。背の高い彼を見上げる。おれもそこまで低い方ではないはずなのに、と少し不満だった。
「ネズと、オレさまで、バトル! エキシビションマッチでどうだ?」
「まあ、それなら。いつがいいんです?」
「オレさまも予定あるし……でも頼んだ方だから、そっちに合わせる」
「なら……」
 そうして予定をざっと思い出して、バトルの日を決めた。
 太陽のような男が帰っていく。寒いなと思った。季節は冬の最中だ。そりゃあ寒いだろう。当たり前のことが、何だかおかしかった。ネズ、楽しそう。共演を頼んだギタリストに言われて、まあ楽しみができましたねと返事をした。楽しみだなんて言えることがまた、おかしかった。

 キバナとおれとでは立場が違いすぎる。それは表面的なものでも、文字で表せられるものでもない。住む世界が違う、住む時間が違う。そういう世界線の話で。絶対に交わらない平行線なのだ。
 そう言うと、マリィはそれでもアニキとキバナさんはバトルしたのにと頬を膨らませられた。確かに、バトルはした。でも、それだけだ。バトルが重要視されるこのガラルで、バトルをした経験が"たったそれだけ"と呼べるものではないことは分かっている筈なのに、それでも些細なことだろうと思ってしまう。
 なぜ、キバナはエキシビションマッチを望んだのだろう。分からなかった。

 なので、稀有なやつだなあとは思ったのだ。

 エキシビションマッチを終えて、スパイクタウンのバーで飲んでいたら、キバナはオレさまさあと語りだした。
「オレさまもさあ、全然見向きもされない頃だってあったわけよ」
 そりゃまあ、そんな時期は誰にだってあるだろう。
「それでも、徐々に注目されてさ、順調にジムリーダーにもなってさ」
 そこで、ハッと気がついたんだ。キバナはへらと下手くそに笑っていた。
「オレさまの大切なものが分かんなくなっちまった」
 だからだ。だから、とキバナは続ける。
「だから、全然違うオマエとまたバトルしたかった。バトルしたら見えるものがあるんじゃねーかなって、昔みたいに思えてさ」
 瞬間、頭が真っ白になって、何も言えなかった。平行線のおれとキバナは平行線だからこそ、見る価値のある互いだった。そういうことなのだろうか。
 バトルとは、全然違う人間と人間との生が交わる機会なのだ。忘れていたそれが、ふっと天から降ってくる。
 信念とか、経験とか、価値観とか、全部がぶつかるのが、バトルだった。
 そういうバトルを、さっき、おれとキバナはしたのだ!

「どうでしたか」
 やっと捻り出せた、飾り気のないストレートな言葉に、キバナは臆さず驚かず、すぐに返事をした。
「やっぱ、ネズはすげー強いし、オレさまも間違ってなかった!」
 なあ、またバトルしようぜ。会話を邪魔しない程度のジャズが流れる薄暗い店内で、太陽のような男の手をとった。
「おれなんかで良ければ」
 よろしくお願いしますね、と。

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