キバネズ/幻聴/そういう日もある
遠い昔に呼ばれていた名前があった気がする。
郷愁を得るには、故郷があるべきである。一般的なそれを、キバナはネズが四苦八苦しながらタチフサグマのブラッシングをしているを見ながら、思う。
その点、ネズは充分な故郷を手にしている。彼は郷愁を得る人間だろう。キバナはスマホロトムでSNSをチェックする。流れる情報が、少しばかり煩かった。
ネズは、自分をほんとうに必要としてくれるのだろうか。たまに、そんな不安に苛まれる。ネズにはスパイクタウンさえあればいいんじゃないか。オレさまが居なくても、充分に生きていけるんじゃないか。そう考えて、やめやめと頭を振る。もしもというifを考えたって仕方ないのに、キバナは考えてしまう。
もしも、もしもだよ。頭のどこか、心の底から何かが囁いた。
ネズに一番だって思われていなかったらどうする?
そんなの、そんなのは分かっているのに、たまにどうしようもなく、胸が苦しくなる。呼吸が下手になって、何か異物が詰まったようだ。
「キバナ」
ふと、落ちるような声がして、顔を上げる。いつの間にか、キバナが座るソファの前にいたネズが、その青白い腕の先でそっと、頬を撫でた。
「顔色が悪いですよ」
休むならベッドルームを貸しますが。そう言われて、キバナはそりゃ有り難いなとへらへら笑ってみせた。見栄っ張りの強がり。ネズは不満そうに眉を寄せた。
「不安があるのなら言ったらどうです?」
「は、」
「おれはそう察するのがうまい人間じゃねーんですよ」
その大きな口はなんの為に付いてるんですか。冷たい指先で唇を撫でられながらそう言われて、キバナはハハと笑った。肩が揺れた。口を閉じた。嗚咽が漏れた。
衝動をやり過ごして、また口を開く。
「すきだって、言って」
こぼれ落ちた願いに、そんなことでいいんですかと、ネズがきょとんとする。キバナは目の前のネズに手を伸ばし、言う。
「オレさまばっかり好きみたいだから」
不公平だ。なんて、そんなのどうしようもない理不尽だ。好きな気持ちは秤で測れるようなものじゃない。でも、分かっているのに、やめられなかった。心の底から声がした。
どうせ一番はオレさまじゃないよ。
「好きですよ、キバナ。おれの恋人、おれの一等大切なもののひとつ。ああ、泣かないでください。いい大人でしょうに」
やっぱり、本物は想像のはるか高くを飛んでいた。ネズがキバナの頭を抱え込む。キバナはネズの背中に手を這わせた。ぎゅっと抱きしめ合えば、苦しいぐらいなのに、心が少しだけ軽くなって。
暗い底からの幻聴が消えた気がした。