キバネズ未満/はるのあしおと


 冬が終わりを告げる。ひとつのシーズンが過ぎていく。キバナはぼんやりと、虚空を見つめていた。このシーズンでも、キバナは二番手に終わった。ポケスタには、またファンからの応援のメッセージが届いていることだろう。同量の悪意があろうとも、キバナにとっては、大して悲観することではない。

 ジムの奥にある事務室で、山のような書類仕事を終えて、帰宅するためにナックルシティを歩く。冬が終わろうとしている太陽光は、ふわりと柔らかい。街行く人々は穏やかな帰路を楽しんでいるように見える。一方のキバナは、最近はエキシビジョンマッチも組めなかったと、やや憂鬱だ。
 ナックルジムは宝物庫の管理も仕事の一つである。それは他のジムとは違った、立派な特異性であり、故にジムの管理もまた、違ってくる。
 さらに、ナックルシティはワイルドエリアに隣接する。なので、ワイルドエリアの北部の警備もナックルジムの管轄に入る。
 つまるところ、忙しかったのだ。キバナははあと息を吐いた。ポケモンたちはボールの中で、出番はまだだろうかと、待ち焦がれていることだろう。ポケモンにとって、ボールの中は心地良い場所だとよく聞くが、広い場所で思いっきり体を動かすのも大いに必要だろうとキバナは考える。なのでせめてもと、ワイルドエリアの警備には順番に連れ回したが、当然、それではこと足りない。
 嗚呼、思いっ切りバトルがしたい。キバナは鬱々と燻っていた。

「おまえ、なにしてるんです」
 へ、とキバナは瞬きをする。こんなところで、どうしたんです。そう言って忽然と現れたのは、隣町の先代ジムリーダーのネズだった。
「こんなところって」
「ここ、ルートナイントンネルのスパイク側ですよ」
「なんで、ネズがここに?」
「おまえがこんなところで呆けてるから、心配した住民に相談されたんです。ジムリーダーに、と渡された話でしたが、マリィは特訓があったので、おれが」
 で、とネズは白黒の髪を揺らして問う。春が近づく冬風が、さらりと駆け抜けた。
「なにがあったんです?」
 何も、ない。
「何もないよ」
「ダウト、そんな顔じゃねえですよ」
「本当なんだ」
 何も無かった。だからこそ、キバナはこうして悩んでいる。燻っている。現状打破が見えなくて、無意識に、ジムチャレンジに挑む子どものように街を飛び出したのだろう。なんて、子どもっぽい。
「なんにもなかった」
 時代は変わっていく。キバナは変わらなかった。それが答えだった。キバナは停滞している。淀んだ水に、水流を起こすのは、誰だろう。
「ネズは、こういうことなかったのか」
 むしろ、とネズは不思議そうにしている。
「おまえには今までなかったんです?」
「無いよ、一度も」
「どうしてまた」
「それだけ、ダンデが偉大だった」
 彼に勝とうと戦略を巡らせるだけで、時間はあっという間に過ぎた。バトルにも流行り廃りがある。その激動の時代に、最先端に、かつてのキバナはいた。
「今だってそうでしょうに」
 そうだ。今だって、新旧どちらのチャンピオンのこともライバルだと思っている。でも、どうしてだろう。この心の空白が埋まらない。
 キバナは燻っている。
「らしくねえ顔ですよ」
「うん」
「自覚してるなら、なんとかしやがれ」
 大人でしょう。なんて、陳腐な慰めにキバナは、ふっと、息を吐いた。
「ネズは、こういうことないのか?」
 単なる興味だった。だが、ネズはきっぱりと返事をした。
「もう、おれにはありませんよ」
 やりたいことは全て成し遂げた。ネズは猫背ながらに堂々としている。常日頃は日陰を歩くような男が、スポットライトの下で輝くことを、キバナはあの準決勝で初めて知った。
 それまで、知らなかったことを惜しむほどの、輝きだった。
「これからは新しい世代の時代です。おまえはまだまだですがね」
「なんだそりゃ」
「ドラゴンストームは、未だ健在で無ければならないんですよ」
 ほら、笑え。ネズは愉快そうにくつくつと喉を鳴らした。
「おまえはまだまだ現役ですから」
 それが無性に悔しかった。
「ネズだって、まだ戦えた」
「限界でしたよ」
「エキシビジョンマッチだってしてるクセに」
「マリィにはまだ荷が重いですから」
 不慣れな土地でのバトルは、身軽なトレーナーに向いてるでしょう。ネズは笑う。キバナは顔色を曇らせる。
「オレは、もっと戦えるのかな」
「ええ、戦えますとも」
「勝てるかな」
「それは、おまえ次第ですね」
「また、勝てないのかな」
「さあねえ、知りませんよ」
 バトルの勝敗は、残酷な程にハッキリとしている。白と黒は混ざることなく、明暗は濁ることがない。勝者と敗者には、天と地ほどの差があり、キバナはそれをどちらも知っている。トレーナーとして、負けたことの無い人間など、きっと居ない。でも、あの新チャンピオンは負けたことがないのかもしれないと、訝しんだりもするが。
「で、どうしたいんです」
 キバナは変わらず、燻っている。心と精神に穴が空いて埋まらない。だから、これは気まぐれだ。
「ネズが、埋めてくれるか」
 ダンデが去って、新たなる時代が来て、その中で燻る、キバナの穴を埋めてくれるの。キバナの泣きそうな顔に、ネズはいいえと否定した。
「おれは誰かの穴埋めなんて、大層なことは出来ませんよ」
 でもまあ、とそっと目が合う。それは薄氷のような眼差しだった。冷たいのに、触れたら壊れてしまいそうな、繊細で、温かさを秘めた目だ。
「せいぜい、寄り添う程度、ですかね」
「寄り添う?」
「ええ、支え木程度には、なりましょう」
 腑抜けたおまえを見てられねえんですよ。存外、面倒見の良いこの人に、キバナはぱちりと瞬きをした。
「いいの?」
「いいってもんです」
「本当に?」
「ええ。でも期待しねえでくださいよ」
 おれはとうに引退した身ですから。ネズは言うが、それにしては地に足がついている。揺らぎ無きそれは、甘く心地良くて、彼が慕われるのも当然だと改めて思わされた。その性質はチャンピオンたちのカリスマ性ではない。ただ、両手ですくえるだけの人たちを助けたいという、献身性だ。
「ネズは、」
「はい」
「優しいな」
「残酷なだけですよ」
「いや、優しい」
 少なくとも、オレは救われるから。キバナはへらと、笑った。燻っていた心に、光が射した。
 これは穴埋めではない。新たなる、ライバルだ。
「おれは、おまえのライバルになんてなれやしませんよ」
「なれるよ」
「途端に自信を持ちやがりましたね」
「だって、ネズだもん」
 でもまあ、とキバナは力を抜いた。
「まずは、お友達から。なあ、友達になってくれるか?」
「そりゃまた、物好きなことで」
 構いませんよ。ネズは意外にもすんなりとキバナの提案を受け入れたのだった。

 春はもうすぐそこに迫っていた。

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