キバネズ/レモネード


 愛と幸福と、悲哀と懺悔を。

──わたしはあなたをすきになりました。

 その文面に吸い寄せられる。

──あなたはいつもわらっていて、わたしとはせいはんたいでした。

 そっと、その文章に触れる。インクの色が指に付きそうなのに、ちっともつきやしない。ああ、文章は古いのだろう。

──すきです。だから、はなれました。

──わたしがいたら、あなたはけがれてしまうから。

 そんなものは傲慢だ。自分が関わることで、相手を変えるなど、絵空事にしか過ぎない。オレはそれをよく知っている。

──でも、あなたのすきなレモネードのことはわすれられなかったの。

 そうか、レモネードが好きな人だったのか。オレは目を細める。ジュラルドンがじっとこちらを見ていた。大丈夫、怖くなんかない。

──いまでもたまにつくるレモネードは、あなたがつくったものとはおおちがい。

 それはそうだろう。檸檬の量も、割り材の量も何もかもがオレたちの違いなのだから。

──わたしはあなたをすきになりました。レモネードはいまでもわすれられない。おもいでにすらならない。ずっとすき。だから、はなれたの。

 ねえ。そんな声がした、気がした。

──あなたがすきなレモネード。わたしのすきなものを、あなたはしっていたのかな。

 知ってるよ。オレは思う。全部、全部知っている。なあ、そうだろう。インクの上をなぞる手は止まらない。

──こんどこそ、さようなら、レモネード。

 そこで、文章は止まっていた。

「なにしてんですか」
 ネズがきょとんとしている。ああこれ。オレは書きかけの文章から手を離した。
「哀愁のネズだな」
「そうですか? 単なるレモネードの歌でしょうに」
「そうだけどさ、オレは嫌いじゃないや」
 なるべく、優しく笑う。そうすると、ネズはいつも笑い返してくれるから。
「嫉妬しねえんです?」
「ただの草案に嫉妬してほしいのか?」
「よくお分かりで」
 さあ、最後の仕事に行きましょう。ネズはいつもの服で立っていた。
「ジムリーダーの交代式だっけ」
「ええ、手順を踏まないとリーグが納得しませんから」
 ジムリーダーの交代式は各地方で違う。ガラルでは、客を入れたバトルをして、勝敗に関係無く、ジムリーダーの意向で交代が可能になる。
「マリィとはジムリーダーとして一度戦ってますが、今回はそれとは別ですから」
 本気のバトルを、最愛の妹と共に。コンコンと、ネズはオレの背を叩く。
「大丈夫。おれは成し遂げてみせますからね」
 しっかりしなさい。ネズの言葉に、オレはくしゃりと泣き笑いを浮かべてしまった。
「ジムリーダーとして、歓迎するぜ、ネズ」
 新世代への交代を、継承を。早すぎると誰もが思うそれを、オレだけは歓迎しよう。
「でも、これだけは言っておくから」
「はい?」
「オレはネズのバトル、大好きだった」
 頑張ってこいよ。そう告げれば、ネズは当たり前ですと胸を張って、ポケモンたちの入ったボールを手に、家から出掛けた。
 ジュラルドンが目を細めている。オレはただ、レモネードのことを考えた。甘くてすっぱい。それは初恋の味だよね。いつしか誰かが言っていた、気がする。
「節目かあ」
 帰ったら、ちょっと豪華な夕飯を、作ってみせよう。そして、今日こそは未来の約束をしてみせよう。そう決めて、オレはジュラルドンと一緒にスパイクタウンのネズの家から飛び出して、食材と花の買い出しに向かったのだった。

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