キバネズ/まぼろば


夢を見た。
遠い夢だ。
それを掴もうとして。
おれは何も掴めずに。
ただ判然としない街を、
骸のような見目で歩き、
ボォンボォンと鳴る塔の、
雪の下にて、仄かに眠る。


 夢を見た。ネズは起き上がる。妙な夢だった。それは明確な形を持たず、ただうっすらとした不安と恐怖をネズに植え付ける。何だったのだろう。ネズは訝しむ。タチフサグマが只事ではないと近寄ってきていた。ここは不思議な不思議な生き物が存在する世界。もしや、その中の一種がネズに干渉したのだろうか。
 何の為に?

「ネズ、ご飯出来たぜーって起きてる!」
「ああ、おはようございます、キバナ。おまえはいつも早いですね」
「ネズが低血圧なだけだろ。オレは健康優良児なんでね」
「腹立つ」
「代わりに夕飯は作ってほしいな、ダーリン」
「ダーリンは今日も仕事が終わらないんですか?」
「死ぬ気で帰っては来る」
「分かりました。夕食は共に食べましょうね」
「ありがとう!」
 そうして寝間着から着替えて部屋を出て、身支度を整えてから朝食の席についた。ネズの前に広がるのは目玉焼きつきのトーストと、カリカリになるまで焼いたベーコン、モーモーミルクの入ったミルクティーに、きのみのサラダだ。
 ネズの身支度の間に、キバナはポケモンたちにフーズを渡していた。そして、ネズが席につくと、キバナも座った。
「ドレッシングこれな」
「手作りですか。器用ですね」
「計って混ぜ合わせるだけじゃん」
「それが手間ってモンです」
 では、と二人は食事を始めた。温かな朝の光に満ちた、スパイクタウンの家の中。ふとすると、今朝の夢など忘れてしまいそうになる。そんな、幸せな空間だった。

──また、夢を見た。

 ネズはうたた寝から目覚める。キバナが出勤した後、朝食の片付けをしてから、ネズは作業部屋に籠もっていた。ポケモンたちは入らないようにと言ってあるが、尋常ではないと、カラマネロがタオルを差し出してくる。濡れたタオルはズルズキンが用意したらしい。ドアの向こうからひょっこりと顔を覗かせていた。カラマネロとズルズキンにお礼を言ってから、ネズは顔を拭いた。今日は外に出ないのでメイクをろくにしていない。そもそも、こんな夢見でメイクをする勇気はなかった。
 まだ、この夢はしばらくまとわりつくだろう。トレーナーとしての直感が、ネズに語りかけてきた。まったくもって、不満の一言に尽きる。

 作業に集中し、一先ずここまでと、ランチを食べる。冷蔵庫から作りおきの野菜とエビのマリネを取り出し、きのみのサラダを作る。ジューサーでオレンのみのジュースを作り、ポケモン達にはポケモンフーズを渡した。
 皆で食べて、ネズはさてとと時計を眺める。もう、夕方までは数時間しかない。それまでにせめて一曲は調整を終えたいと、ネズは気合いを入れた。

──雪が降っている。

 秋の始まりだというのに、雪がちらついていた。異常気象だろうか。ネズは雪雲がキルクスから流れてきたのかと首を傾げた。気温はそこそこ高かったような。そんなふうに天気予報をスマホでチェックすると、スパイクタウンは冬並みの気温となっていると予報されていた。家に籠もってばかりで、天気予報すらチェックしなかったことが響いているらしい。ネズはついでにナックルの天気予報も見た。曇りのち雪。こちらもどうやら冬の様子らしい。

 寒いのならとネズは古い家のストーブを着けた。身を寄せ合っていたポケモンたちが、わらわらとストーブに寄って来る。やけどしないでくださいよ。そう注意してから、温かなビーフシチュー作りに取り掛かった。

──ただ判然としない街

 ネズがくつくつと音を出すビーフシチューを作り上げると、時間は夕方を遠に過ぎており、ポケモンたちだけにはとフーズの用意をした。
 付け合せのサラダはもっと遅く作ってもいい。ただ、マッシュポテトは作っておこう。じゃがいもを野菜庫から取り出した。丁寧に洗って、皮剥きをし、茹でて、粉吹き芋にすると、マッシャーで潰した。味付けは胡椒と塩に、少しのマヨネーズだ。

 ネズがそれらを作りえ終えると、ただいまと声がした。夜半、キバナは宣言通りに帰ってきた。
「ただいま、ネズ。外めっちゃ寒かった」
「おかえりなさい、キバナ。あとでストーブの前で温まってなさい」
「そうする。なに、ビーフシチュー?」
「ええ、マッシュポテトと、あときのみのサラダを作るから手洗いうがいに着替えを済ませて来なさい」
「手厳しい!」
 でも分かってると、キバナは自室に戻った。
 モモンのみをベースにしたきのみのサラダを作ると、ビーフシチューやマッシュポテトを盛り分けた。ビーフシチューは沢山作ったので、明日の分まであるだろう。ネズはビーフシチューが好きだ。大切な人を思ってコツコツ作る料理は、愛情を感じるのにぴったりだと思っている。

 最後にカトラリーを揃えると、キバナがやって来た。先にご飯食べると、言うのでならばと席についた。

 二人でビーフシチューを食べて、皿洗いをし、温かいエネココアを手にストーブの前に座る。ソファがあって良かった。沈み込みながらネズはうとうととする。ココアが溢れる。キバナがネズの手からマグカップをするりと抜いた。
 微睡みに沈んでいく。

──骸のような、見目で、歩く。

 嫌な夢だった。こんな幸福な日に、見る夢ではない。ネズは起きて、そばにキバナがいないのが不安になった。水の音がする。彼はシャワーを浴びているらしい。寒いのだから、湯船に浸かるように言わなければ。だが、ネズの口からは何も溢れなかった。
 ただ、怖かった。

「ネズ、どうしたんだ?!」
 ばたばたとキバナが駆け寄る。ろくに乾かしていない髪から水滴が落ちた。ネズはそっとキバナを抱き寄せる。温かかった。
「時計塔の、」
「うん」
「雪の下で、眠る夢を見たんです」
「そっか」
 それは、寂しかったな。キバナは言う。寂しい、のだろうか。ネズはただ怖かったと伝えた。怖くて怖くて、ああ、やっぱり少し、寂しかったな。
「キバナ、おまえはおれを置いて行きますか」
 マリィは無事に巣立った。ならば、おまえはどうなる。そんな問いかけに、なんてことは無いと、キバナは優しく笑った。
「オレはずっとネズと一緒だ」
 それが単なる口約束に過ぎないとしても、ネズは只々、幸福だと思えた。

 その怖くも寂しい夢は、一旦、終わりを告げたのだ。

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