キバネズ/九寸五分の恋
これは九寸五分の恋であらざりましを。
手を握りたい。ふと、キバナは思う。ネズは、手ぐらいいつでもどうぞと、笑った。あくタイプだな。キバナは苦笑した。
「家の中ならいいのか?」
「ええ、もちろん」
「外は?」
「ダメです」
「ケチ」
「お好きにどうぞ」
ネズは楽しそうに笑っていた。あくタイプらしいな。キバナはそっとネズを見つめる。歌詞のメモをガリガリと書いている。キッチンの隅、決して広くないそこで、ネズは歌詞の下地を作り出していく。
オフの日、午後の微睡みの中。キバナはネズとマリィの家にいる。マリィは朝早くから特訓に出掛けていて、夜まで帰らない。もしかしたらキャンプするかもと言っていたが、ネズはどちらでも大丈夫とマリィに言っていた。信頼の証だろう。キバナもまた、気をつけろよと告げるのみだった。そう、明るいネズとマリィの家に、キバナという異分子が溶け込んでいても、二人は何も言わなかった。
出来る事なら、言ってほしかった。でも、二人は言わない。あくタイプの兄妹は、ただひたすらに、キバナを甘やかしてくれた。ずるいなあ。キバナは底なし沼の愛に溺れた。
そんなキバナはアーティストではない。だから、生む苦しみは分からない。キバナは、たぶんと、思う。この幸せな光景をSNSに投稿すれば、きっと大きな反響があることだろう。
でも、だからこそ、キバナはこの光景を壊さない。大切にしたいと、心の底から思うのだ。それは嘘じゃない。本当だ。
「リズムが乱れてますよ」
ネズが丸まっていた背中を伸ばして、顔を上げた。ネズには何でもお見通しだ。嘘も真も、未来さえも。
「買い被り過ぎでは?」
「そんなことないもん」
ネズはすごいんだ。キバナは言う。
「ネズはほんとにすごいから」
「はあ」
「オレさま、見劣りするだろうなって」
「へえ……おれの目に狂いがあったと?」
「何でそうなるんだよ?!」
「だってそうでしょう」
おまえを選んだのは、おれなんですからね。ネズは自信ありげにそう言った。哀愁を語る口が、比類無き自信を以って、キバナへと言の葉を告げる。真っ直ぐに、だけど、逃げ場を無くしていくように。ああ、戻れない。キバナは自然と笑みが溢れた。
だって、だって。嬉しかったのだ。
「ならさ、オレに朝のミルクティーを淹れさせてくれよ」
希うように言えば、ネズは幸せそうに、かつ、呆れた顔をした。
「そんなの、とっくに許してますよ」
おまえしか、許しませんからね。平凡な言葉なのに、それがネズの口から放たれかと思うと、とたんに輝きを帯びるのだから、己は現金なものだなあと、キバナはゆるゆると口元を緩めたのだった。