キバネズ未満/価値観の相違/そんなものと言えたらいいのに


 どこに行くの。どこにも行かないの。

 手を伸ばしたところで欲しいものが手に入るわけもない。ネズの欲しいものはいつも遠くて、嫌になる。両手のひらに乗らないそれを、ネズは必死に掴みとろうとする。握ったそばから砂のように崩れ落ちて風に消えるそれを、どうして得ればいい。
 ネズの欲しいものは、そんなものだった。

「オレにもあったよ、欲しいもの」
「へえ、意外ですね」
「ひでーの」
 二人きりのバーで酒を飲み交わし、あったんだよとキバナは繰り返す。
「でもさ、手に入らなかった」
「ああ、もしかしてダンデの?」
「うん。それ。ダンデはもう絶対、チャンピオンには戻らないだろうから」
 ああ、この年月は、歳月は何の為にあったのか。キバナの目が溶けている。それなりに酔っているらしいとネズはそっと水を頼んだ。
「だいたいさ、ネズだって再戦してくれない」
「そりゃ、おれはもう第一線を退きましたので」
「ダンデもネズもひどい。オレさまをおいて行くんだ」
「何か始めてみては?」
「ジムリーダー業に宝物庫の管理で精一杯なんだよ。あとスポンサーのほうも」
「考える暇もないぐらい忙しいのでは?」
「いつもはな。でも、こういう時に、ふと思うんだよ」
 ネズとダンデが居たらと。そうしてメソメソと泣き言を言い始めたキバナに水を渡しながら、ネズはその程度と喉まで出かかった言葉を引っ込めた。キバナにとっての、バトルの重みを、ネズは分からない。ならば、深く言うことはない。
「なあ、ネズはさ」
「はい?」
「欲しいものが手に入らなくて辛かった?」
 そんなもの、当たり前だ。だが、今の彼に言っていいものか、悩む。キバナが求めることのないもの。それがネズの欲しかった、町の復興だ。そんなものと蹴られたら、この酔っぱらいを放置して自分は帰ってしまいそうだ。流石にそこまで非情なことはできない。トップジムリーダーが酔いつぶれて何らかのパパラッチに捕まるなどお笑い草だ。
「おまえこそどうなんです」
 だから、問うた。答えは分かりきっていた。散々ぐちぐちと言っていたのだから、ネズとダンデが第一線を遠退いた話だろうと決めつけていた。
「オレは、辛かったよ」
 ほらご覧。ネズが思わず笑う前に、キバナは言った。
「何もできないオレが、悔しかった」
「はあ?」
 何もできない、とは。ネズは首を傾げた。この男は突然何を言い出すのか。酔っぱらいの戯言だろうか。ネズは耳を澄ませた。
「ダンデもネズも引き止められなくて、宝物庫の管理に手一杯で、バトルの準備に追われて、ジムリーダーとしての職務も終わらなくってさ」
 スポンサーからのイメージも続いてさ、オレさま、結局何もできてない。

 何を言っているのか。ネズは溜息を飲み込んだ。何もかもをそつなくこなす男だと思っていた。いつも温和な笑顔で、バトルの時だけ獰猛な男だと思っていた。だが、その皮を一枚、剥いだかと思ったら、突然、何を言うのだ。
「馬鹿ですか」
「なんで?」
「自己評価もまともに出来ないほど落ちぶれていたとは思いませんでした」
 自分を守る最初にして最後の砦は自己である。ネズは息を吐いた。肺の中の全ての空気を出し切ってから、すうと吸い込む。
「いいですか、キバナ。おまえはよくやってます」
「え」
「ガラルのトップジムリーダー。銀行のイメージキャラクター。宝物庫の管理。ポケスタの流行り廃りのチェックも欠かさない」
「え、あ、うん?」
「この間はインタビューまで受けていたでしょう。そこまでやって、おまえはおまえを褒めないんですか」
「えっと?」
「自分を認めなさい。話はそこからだよ」
 ネズは高らかに告げた。
「自己を愛せぬ者に他人を愛する事は出来無い。以前のおまえはよく他人を愛せていたでしょう」
 あとか、うとか。キバナは水を手にもごもごと口を動かしている。そしてしばらくしてから、顔を上げた。
「もしかして、慰めてくれてる?」
「ええ、そりゃもう、とびっきり」
「うわ、どうしよう」
 嬉しい。そうへらりと笑った男に、ネズはいいですかと繰り返した。
「自分の行いを信じなさい。おまえはおまえの力で立っているんです。人はヨスガ無しには立てませんが、そのヨスガを得るのは自分を認めたものだけの特権だ」
 ネズには欲しいものがあった。だが、得られなかった。分かっている。ネズはネズを認めることを諦めた。これは自分に言い聞かせているとも同義だ。
 欲しくて、欲しくて、手に入らなくて。絶望して、失望して、それでも縋りついた。だって、それだけ欲しかったのだ。みっともなくすがりつくぐらい欲しかった。
 たとえ、やり方を間違えていたとしても。
「なあ、ネズはさ」
 キバナが言った。
「やっぱりすごいやつだよ」
「何がやっぱりなのか、さっぱり分かりませんが、ありがとうございます」
「うん、そういうとこ」
 オレさまはやっぱり、ネズに勝ちたいな。引退試合の勝者のくせにそう笑って、キバナはこてんと眠りに落ちた。

 さてはて、この眠こけた大男をどうするか。タチフサグマ達に手を貸してもらいますか。ネズはそうして幸せそうに眠るキバナの頭を、ほんの少し撫でたのだった。

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