キバネズ/高貴/どれだけ貴くても、それは記憶であると
!過去捏造!
遠い夢を具現化するための端っ切れに食いつく。
薄暗いスパイクタウンの夕暮れ、小さなネズの家。その中でも、とびきり小さな作業部屋。ネズは譜面と向き合う。
誰にも言えないことがある。ネズの小さな記憶の隅の、朧気な記憶がある。決して、言えないからといってやましい記憶ではない。ただ、神格化されてしまったのだ。
この、ネズが。
「情けない」
ぽつりと呟く。指先が譜面をなぞる。鮮やかな黒いペンで書き込んだそれを元に、修正して、また印刷せねばならない。収録まで、時間がないことは分かっているのに、ネズは動けなかった。
言えない記憶の蓋を、開けようとしている。新作では、あの記憶を題材にしようと決めていた。神格化してしまった記憶を、俗世に引き下ろすのだ。
冒涜だ。英雄は言うかもしれない。お前にその技量はあるのか。王は問うかもしれない。それでも、書きたかった。歌いたかった。
「幸せな頃の夢を」
お父さんと、お母さんと、マリィと、町の人々と。ネズを見てくれていた、その柔らかな数多の目を。乗り越えたいのだ。
扉が開かれる。
「神とは、尊くも遠いものである、として」
キバナが言う。聞いた話だよ。マグにミルクティーを淹れて、彼は薄暗い作業部屋に立っていた。ああ、リビングからの光が彼の影を形作る。美しいな、ネズはぼんやりと思った。
「ネズのそれは冒涜ではなく」
未完成の譜面が散らばった部屋で、彼は器用に、譜面を踏むことなく歩く。
やがて、椅子に座るネズの隣へと立った。こっち見てとでも言うように、へら、と笑う。
「愛の発露だ」
大丈夫。キバナはマグを机に置いて、ネズの肩をぽんぽんと撫でた。
「それだけ、ネズは頑張ったんだよ」
父さん、母さん、ああ、妹よ。ネズは俯いた。涙がぽろぽろと溢れた。作曲中は感傷的になりがちで嫌になる。だけど、この涙は悪いものではない。
キバナがハンカチを差し出してくれている。遠い日に、ネズがマリィへ差し出したかのように。あの白いハンカチは、誕生日の贈り物だった。
薄暗い作業部屋の隅で、ネズは机に向き直る。キバナが穏やかに問うた。
「休憩するか?」
「いいえ、書きます」
せっかくキバナに励まされたのだ。ここで書かなくて、いつ書くというのだ。
柔らかくて、温かくて、優しくて、甘いミルクのような日常を。失われたあの年月を。
ネズは、はっしと歌うのだ。あの日々を。
「オレは待ってるよ」
いくらでも、幾らでも。穏やかな声に、ネズはありがとうございますと、だけ応えた。