キバネズ/果てしなく、恍惚


 果てしなく、恍惚。

 遥か彼方のあなたとの日々は尊いものでありました。ネズは熱い息を吐く。夏が来た。スパイクタウンの夏はそこまで熱くはならない。ただ、アーケード街は別だ。あそこは空気が溜まりやすく、断熱材なんて全くないので、夏は熱くて、冬は寒い。
 ところで、ネズが今いるのが自宅かというとそうではなかった。アーケード街の裏、陽が射し込む裏通りの、小さなネズの家だ。マリィはまだ帰ってきていない。
 愛しい人もまた、まだいない。

 遥か彼方、夢見が悪くて、温かくて、哀しかった。
「もしもだよ」
 ネズはぐずるエレズンを抱きかかえながら、声をかける。
「もしも今のおれに、大切なものが、全部揃ったら」
 その時は、おれを──


・・・


 目が覚める。キバナは悪い夢を見た。胸がムカムカとして、胃酸がじゅわりとこみ上げてくる。
 さっさとうがいをして、朝食を用意する。
 ロールパンに切れ込みを入れて、トースターで温める。レタスを洗い、ちぎり、水気を丁寧に取る。ハムとスクランブルエッグを用意すると、トースターが音を立てた。温かいロールパンにレタスとハムとスクランブルエッグをはさみ、マヨネーズをかければ出来上がりだ。

 パートナーたちにフーズを用意してから、キバナは朝食を食べた。ミルクティーを飲みながら、さてと今日の予定を確認する。銀行からの仕事はない。宝物庫の修繕に時間をさけそうだとキバナは笑みを浮かべた。
 しかし、ふと、隙間風が心を駆け抜けた。
「嫌な、夢を見たな」
 どうしてだろう。幸せだったはずなのに。幸せになるはずなのに、"彼"はどうして幸せにならないのだろう。


・・・


 エレズンは泣き止まない。ネズはゆらりゆらりと体を揺らして、泣き虫っ子の機嫌をとる。
「お腹が空いたんですかねえ」
 それても、かあさまが恋しいのですかね。くつくつとネズは笑う。
 愛しい人はまだ帰らない。マリィはまだ、帰らない。果て、ここはどこだったか。否、ネズの小さな家だ。

 路地裏の、小さな小さなネズの家。家族とパートナーたちと、愛する人が共に住まう家。

 こんなにしあわせなことはないわ。
 こんなに仕合せなことはないわ。
 此度程に幸せなことはないわ。
 そう、幸せなの。本当にね。

 ネズは歌うようにエレズンに言う。

「いつか、すべてが、揃ったら、その時は──」

 おまえのその手で。


・・・


「キバナさま!」
 あ、とキバナは反応が遅れた。落ちてくる本棚。書物。貴重品の棚じゃなくてよかった。そんな見当違いなことを思いながら、キバナは本の山に埋もれた。

 怪我はひとつもなかった。ただ、頭を打ったのだからと、念の為に医者にかかることになった。

 なんだかなあ。キバナは首を傾げた。何だか妙な白昼夢を見た気がした。咽に胃酸がせり上げてきて、嘔吐感に苛まれるような夢だ。

 それがどんな夢だったか。キバナは詳細を思い出せない。ただ。
「ネズがいた」
 そうだ、ネズがいた。紐づる式に小さなネズの家を思い出す。
 温かな、光あふれる小さなおうち。そんなもの、無いのにさ。キバナはおかしくなった。
 ネズの家は、そんな真っ平らな幸福を体現するような家ではない。これは妄想の産物だ。キバナは笑い飛ばしたかった。
 笑い飛ばせなかったのは、思い出したからだ。
「そういえば……」
 ネズは、エレズンになんと言っていただろう?


・・・


 小さな小さな
ネズのおうち
 小さな小さな
エレズンを抱いて
 小さな小さな
ぬくもりの揺りかご
 小さな小さな
世界の中で
 小さな小さな
幸福を積み上げた
 ここはどこ
ここはね、ネズのおうち

 ここはどこ

ここはね、追憶の家。


・・・


 もしも、全てが揃ったら。
「その手でおれを×してくださいね」


・・・


 ひゅ、とキバナは息を呑む。キバナさま、やはりどこかに怪我をなさいましたか。そんなジムトレーナーたちの労りの言葉に、いいやとキバナは迷う。あれは、そう、不吉な夢だった。たかが夢、されど夢。キバナはネズの姿を確認したかった。
 行動は早くあるべきだ。キバナはネズにメールを送って、ジムトレーナーの皆に今日は早く帰ろうと声をかけた。丁度良く、火急の用はないのだから。


・・・


「それで?」
「それだけ」
 おまえというやつは。ネズは頭が痛いと額を擦った。場所はネズとマリィの家。マリィはジムに行っているらしい。ネズはミルクティーでキバナを迎えて、ゆっくりと辛抱強く話を聞いてくれた。
「大体、おれの欲しいものが全部手に入るのなら、ミュージシャンなんてしてませんよ」
「それはそうだけど」
「ジムリーダーもしてませんし、おまえと出会うこともありません」
「そう、なんだよなあ」
 ああ、だからだろうか。キバナは夢心地にソファに沈んだ。
「あの夢は、ホントはオレとネズが出会わなかった世界の話かもしれない」
「イフ、も大概にしやがれ」
「仕方ないだろ、夢なんだから」
「まあ、そうですね」
 夢なんだから。ネズはそう、意地悪そうに笑った。

 それは夢の中の多幸感に溢れるネズとは対比的で、キバナは、現実に戻ってきたのだと、実感できたのだった。

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