キバネズ/誰しもが臆病者である/記憶から抜け落ちる声、残るはあなたの温もりだ


 遠い、声がした。

 人が、一番最初に、記憶から失うのは、声らしい。ネズはその泡沫を喜んだ。その分、何度も聞く人がいるということだ。

 一人、作業部屋から出てくると、夜の帳が降りた頃だった。キバナが、お疲れと、紅茶を淹れた。

 人が、一番最初に忘れるのは声らしい。それはキバナも知っていたらしかった。
「オレは恐ろしいと思うよ」
 キバナがぼそりと言った。彼らしくない曖昧な言葉に、ネズはきょとんと、目を丸くした。
「おまえらしくないですね」
「オレさまだって怖いんだ」
 例えば今、ネズの声を忘れたら、それは一つ、忘却への一歩を踏み出したということだ。
「お別れは嫌だ」
 今は何度だって聴けるけど、聴けない日がいつか来る。それがほんに恐ろしい。
 やけに弱気なキバナに、ネズは不思議ですねと語りかけた。
「おれの声を聴きたくなれば、レコードを回せばいいのに」
「それじゃあ駄目だ。誰にでも向けられた歌じゃ、オレさまだけのネズじゃない」
「独り占めしたいだなんて、強欲ですね」
 ドラゴンストー厶。ガラルで一番強いジムリーダー。元チャンピオンのライバルが、たかが一人の声にこだわるだなんて。

 ネズはソファに沈み、くすくすと笑った。笑うなよ、キバナは駄々をこねるように、ネズの手を握った。
「頼むよ、お別れは嫌なんだ」
「おまえより長生きできる気がしないですね」
「一分一秒でもいい。オレより長く生きて」
 怖いんだ。キバナは繰り返す。今日のキバナさまは甘えたらしい。ネズは笑うのを止めて、手を伸ばし、ぽんぽんと彼の肩を撫でた。
「早めに眠りましょう。こんな夜は眠るのが一番です」
「ネズも一緒がいい」
「当たり前です。おまえを一人になんてさせませんよ」
 ネズは整然じみた約束をしない。だからこそ、これが精一杯の応えだった。キバナは、すんと鼻を鳴らして、言う。
「タチフサグマとジュラルドンも、一緒がいい」
「ベッドに入らないので、床にマットと毛布を敷きましょう」
「うん」
 夜の真ん中。月が明るく照らす夜だった。タチフサグマとジュラルドンをマットと毛布に寝かせると、彼らは寄り添い合って眠った。ネズもまた、キバナと寄り添い、照明を落とした。

 月明かりが、部屋に射し込む。カーテンに隙間が空いていた。閉めなくては。そう思うものの、今のキバナを一人にしたくなかった。

 一人で泣くのは、おれだけで充分だ。ネズは心の底からそう思う。近くにいる恋人を、寂しくさせるのは本意ではない。ただ、少しだけ意地悪をしてしまうのは、あくタイプの専売特許として許してほしかった。それがただの、甘えだとしても。
「おやすみ、キバナ。良い夢を」
 使い古された就寝の挨拶に、キバナは小さく、ウンと頷いた。

 二人、並んだベッドは、狭くても、ひどく温かくて、あまりに心地良かった。

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