いのりのかなた/灰原+風見/要素:夏休み・虚構/名前のないモブがいます



 目が覚めたら九月だった。

 灰原はソファから体を起こす。一晩そこで寝たらしく、体の節々が凝り固まっている。軽くストレッチをし、ふうと息を吐いた。朝の日差しが射し込み、静かな室内に時計の音が響いた。何か飲み物がほしい。灰原は立ち上がる。いつもの日常が繰り返されるが、灰原はいつもとは違う心地がした。
 長い夢を見ていた。


 夢の中は夏休みだった。日付は八月の一日から三十一日まで。日本の片田舎、そこに住む灰原は十歳程の少女であり、シホちゃんと呼ばれていた。そして、少しばかり年上の少年、ユーヤとよく遊んだ。
 ユーヤは病気がちで体が弱かった。それでも灰原は、毎日サナトリウムのような温室のベッドに向かい、難しそうな本を片手に舟を漕ぐ彼を起こし、外へと連れ出した。
 夢の中のシホちゃんは外が好きだった。朝方の露の匂いも、昼間の燦々とした太陽も、夕方の蝉の声も、夜中の星々も、シホちゃんは大好きだった。
 ユーヤを連れ出しては、シホちゃんは外を歩き回った。田んぼのあぜ道を歩き、虫を観察し、雑草でままごとをした。スイカを食べ、氷菓子を食べ、線香の匂いを嗅いだ。
 そして何より、ユーヤは歌を知っていて、いくつかの楽器を演奏できた。彼が学校の音楽室にあるピアノを弾き、シホちゃんは歌を歌った。楽器はピアノかリコーダーが多く、たまにハーモニカを演奏してくれた。
 輝くような日々だった。日々の喧騒も、不安定な立場も、周りを巻き込む心配も無かった。
 だからこそ、夢なのだろう。

 ユーヤの顔を、灰原はよく覚えていた。最後の日、彼は涙ぐむシホちゃんと指切りをした。

─きっとまた会える

 指切りをすると、彼は敬虔な教徒のように手を組んだ。ひとりきりで祈るから、シホちゃんは悔しくなって、その手をぐちゃぐちゃに乱して、ぎゅっと握った。

─会いに行くわ

 約束とは言えなかった。それでも、精一杯の約束をした。ユーヤはそれが分かったのだろう。くしゃりと笑って、シホちゃんはかっこいいと、白いシャツを揺らした。


 灰原と、玄関前で自分を呼ぶ声がする。新学期が始まって数日。昨日のうちに江戸川君が、用事があるのだと言っていた。伝えてあったとはいえ、朝から訪ねてくるのはどうなんだと思いながら、灰原は着替えるために部屋に戻った。江戸川君の対応はすれ違った博士に任せよう。
(ユーヤはたぶん、体が弱いわけではない)
 己だって、夢の中では大分、性分が違った。だからきっと、ユーヤも現実とは差異があったのだろう。
「見つけてみせるわ」
 約束したもの。灰原は呟くと、ぎゅっと手を握りしめた。


………


 するりと目を開く。男は何度か瞬きをし、上体を起こした。仮眠室には、幾人かの足音が聞こえてくる。
「風見さん!」
 ここに居たんですかと部下が男に詰め寄る。何だと、先ほど起きたばかりである男、風見は応えた。
「何だも何も、降谷さんが!」
「なんだって?」
「またですよ!」
 何かやらかしたのだなと察した風見は、ハアと息を吐くと、ベッドから立ち上がった。



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