『きょうだい』小学六年生の少年少女の、ひと夏の話



 僕は逆上がりが出来ないけれど、王様は逆上がりが出来る子だった。

 初夏という頃らしい。日差しは暑いのに、風はちょっと涼しい。夜になると少し寒くて、今年は特に温度差が激しいそうだ。
 僕は六年一組の扉をくぐった。友達とすれ違いざまにおはようと挨拶すれば、同じ返事が返ってくる。そしてどこか興奮気味に昨日のテレビは見たかなんて言われて、見てないと答えた。
 真っ先に自分の席に向かって、黒いランドセルを置く。教科書類を机に仕舞って、後ろのロッカーにランドセルを仕舞った。そうしたら先生がホームルームに来るまで時間があるから、僕はいつもの友人の元へと向かった。
「おはよう王様」
「おはよう」
 王様は黒い髪を揺らして顔を上げた。読んでたのは僕らが普段使う教科書とは違う、少し難しいらしい教科書。数学と表紙に書かれたそれを王様はパタリと閉じた。それを見てから僕は気になったことを聞いた。
「何かテレビでやってたの? 」
「みんなが言ってるやつなら、俺も知らない」
「え、本当に? 」
「予想は出来るけれど」
 ふうと息を吐いた王様の顔は少しうんざりとしていた。不機嫌そうな様子に僕は首を傾げるしかない。
 ところで王様とは当然ニックネームだ。王様の本名は東 陽太。ひがしと書いてあずまと読むらしい。ちなみに僕は平野 裕希で、ニックネームは特に無い。
 王様が王様なのは偉そうだからって事ではなくて、どんな事でも出来るからだ。テストは学校で一番、運動も一番。手先も器用で、図画工作も上手い。何でも一番なら王様だろうって誰かが言いだして、今では学校中が王様と呼んでいる。
「裕希、そろそろ先生が来るから席に戻れ」
「え、まだ時間じゃないよ」
「さっき渡り廊下を歩いてた」
「わっ、それならすぐだ! 」
 急いで王様の隣の席に座れば、先生がガラリと扉を開いて教室に入ってきた。こういう時に窓際の席は羨ましいなと思う。
 毎朝の点呼で、呼ばれるのを待っていると空席に気がつく。それはよく休む西川さんで、どうやら今日も休みらしい。風邪かなと考えていると、先生がピアノのレッスンだと言っていた。
 西川さんの名前は月音。楽器を何でも上手に演奏できる天才少女だと、テレビや雑誌で紹介されるような女の子だ。その中でもピアノの演奏がとびっきり上手いとかで、コンサートを開いたりしているらしい。
「裕希、名前呼ばれてる」
 王様の小声で僕は気がつき、先生に向かって元気良く返事をした。

 先生が出した話題は夏休みについてで、もうあと一週間で夏休みだけれど、だからこそ気を抜かずに頑張ろうという内容だった。
 夏休み前のテストも終わっていて、確かにみんなの雰囲気がどこか浮き足立っている。給食の時間になって、僕は王様と同じ班だから会話に自然とその話題を出した。
「王様は夏休みが楽しみ? 」
「そんなに楽しみじゃない」
「勉強するの? 」
「それもある」
 複雑そうな表情に、僕は首を傾げるしかなかった。
 なので、とりあえず僕は飛行場に行くから楽しみだと伝えて、給食の牛乳を一気に飲み干した。

 帰る時間、僕はランドセルに教科書を詰めている時にそうだと思い立って王様に話しかけた。
「今日は遊ぼうよ」
 王様の家に遊びに行きたいと言えば、王様は少し考えてから、頷いた。

 王様の家は高層マンションの上の方の階だ。ガラスの自動ドアをくぐって、エレベーターを使って部屋のある階に向かった。
 王様は部屋の扉を鍵を使って開くと、僕を招き入れてくれた。暗い廊下の電気をつければ、掃除が行き届いた綺麗な家がそこにあった。
 手洗いとうがいをしてから、王様の部屋に入る。きちんと整理整頓された部屋はそんなに広くない筈なのに、とても広く見えて、僕はいつも不思議だった。
 部屋の中、ふと見た事がない機械があって近寄る。そんな僕を見た王様は、仕舞い忘れたと呟いていた。
「それはラジカセだよ」
「へえ、どんな風に使うの? 」
「テープをセットして再生するんだ」
 王様はラジカセの一箇所を開いて、中にテープがある事を見せてから、蓋を閉めて再生ボタンを押した。
 流れ始めたのはピアノの音だった。流れるような音色はとても綺麗で、どこか心が掴まれるような気持ちになった。
「心臓がギュッてなるね」
「別に」
 王様は再生を止めて、テープを取り外した。丁寧にケースに仕舞う様子に、素っ気ない言葉とは違ってとても大事にしていることがよく分かった。ラジカセも仕舞った王様に、僕は迷いながら質問した。
「えっと、さっきの曲はなに? 」
「モーツァルトらしいよ」
「モーツァルトって名前なの? 」
「作曲家のこと。曲名は知らない」
 それだけ言うと、宿題を片付けようと王様が言うので、教えてもらわなくちゃと僕は急いで机に宿題を広げたのだった。


 あれから一週間。夏休みになった。僕は朝にバニラアイスを食べてから、外へと遊びに出かけた。宿題はどうしたのとお母さんに言われたから、夜にやると宣言した。
 夏の日差しは強くて暑い。小さな入道雲が空の向こうに見えた。坂を駆け下りて近くの公園に向かう。その公園に行けば近所の子が誰か一人はいるから、その子と遊ぼうと思っていた。
 公園の前に行くと、公園の中にいつもは見かけない女の子が一人だけいることが分かった。真っ白なワンピースを着たその子は帽子の代わりに日傘を持っていた。年齢は同じくらいだろう。僕が来たことに気がついたその子がこちらを見て、僕は驚いた。
「西川さん? 」
「平野くん、こんにちは」
 こんにちはと挨拶をして、僕は公園の中に入った。
 西川さんと並んで木陰のベンチに座った。日傘を閉じる西川さんはいつもの長い黒髪を一つに結んでいた。教室ではいつも下ろしていたから、新鮮だなと思った。暑いからと西川さんは微笑みながら教えてくれて、髪が長くない僕にはあまり分からないと素直に伝えた。
 ベンチに座って、しばらく僕は西川さんに話しかけ続けた。昨日の晩御飯、今日食べたアイスクリーム。よくこの公園で会う近所の友達のことや、一番仲良しな王様のこと。
「夏休みになる前に、王様と遊んだんだ。そこでね、ラジカセっていうのを教えてくれたんだよ」
 西川さんはラジカセを知ってるかと質問すれば、西川さんは浅く頷いた。
「カセットテープを再生したり出来るものですよね」
「テープってカセットテープっていうの? 」
「はい、その筈です」
 西川さんがそう言って少し黙るので、僕は不思議に思いながらそういえばと思い出したことを伝えた。
「王様は大切にしているカセットテープがあるみたい。聴かせてくれたけれど、とても綺麗なピアノの音がしたよ」
 作曲家も教えてくれたけれど、僕は忘れてしまったので、西川さんには教えられなかった。
 だけれど、西川さんはどこか神妙な顔で、ありがとうと感謝の言葉をくれた。何がありがとうなのか僕には分からなかったけれど、どういたしましてと応えた。

 西川さんは立ち上がり、日傘を広げた。そしてひらりと振り返って、僕に言った。
「これから時間はありますか」
「うん。あるよ」
「私の家に、遊びに来てください。ぜひ」
 そう言って笑った西川さんがとても綺麗で、思わず頷いてしまった。

 西川さんの家は、僕の家が坂の途中にあるのに対して、もっと上の、坂の頂上にあった。
 その家は白い壁で四角くて、テレビで見た外国の城塞によく似ていた。
 玄関の木の扉から家に入る。お邪魔しますと言えば、ひょいと男の人が顔を出して、目を丸くしていた。驚いたんだなと思いながら、僕は元気良く挨拶をする。
「こんにちは! 」
「ああ、こんにちは。月音さん、彼は? 」
「クラスメイトの平野裕希くんです」
「そっか。こんにちは、裕希くん。月音さんはあまり友達を招かないから驚いたんだ、ごめんね」
「いえ、大丈夫です」
 行こう、と西川さんが言うので僕は彼女に続いた。
 案内されたのはリビングだった。そこは広くて、大きなソファに座るように勧められた僕は少しおっかなびっくり座った。
 飲み物を取ってくると言って西川さんが部屋を出ようとすると、ひょいとさっきの男の人がやって来て、二つのグラスを持ってきてくれた。オレンジジュースが入ったそれを机に置いてくれたので、お礼を言えば男の人は笑顔でどういたしましてと言ってくれた。
 男の人はグラスを置くと立ち上がって、西川さんには仕事に行きますと伝え、僕にはゆっくりしてねと伝えて部屋を出て行った。
「優しそうな人だね」
「はい、とても優しい人です」
「お父さん? それとも親戚の人? 」
「いえ、家族ではないですよ」
 困った顔をする西川さんに、僕は首を傾げた。西川さんは何か言おうとして考えているらしいと分かった僕は、部屋を眺めて待つことにした。
 リビングには本棚があって、薄くて大きな冊子が並んでいた。ファイルも置いてあって、背表紙の名前を読んでいった。ショパン、バッハ、リスト。そんな風にいくつもあるファイルの一つに、モーツァルトと書いてあった。それを見た僕は、ああこの名前だったと、王様を思い出した。音楽家の名前が書いてあるということは、そのファイルには音楽に関するものが入っているのだろう。
「さっきの人はタツヒコさんで、お母さんの彼氏なんです」
「彼氏? お父さんは? 」
「お母さんとお父さんは私が一年生になる前に離婚しました。私はお母さんに引き取られて、でも、私とお母さんに血の繋がりは無いんです」
「それって、どういうこと? 」
「結婚した時にはお父さんにもお母さんにも、もう別の人との子どもがいて、そのうちのお父さんの子が私だったんです」
 僕はそこで引っかかりを覚えて、不可解な顔をしてしまった。そのことに西川さんは当然気がついて、苦笑しながら教えてくれた。
「お母さんにも子どもがいました。それが男の子で、親と性別が同じ方がいいだろうって、私はお母さんの子になったんです」
 変な話ですよねと西川さんは笑った。僕はどういう顔をすればいいのか分からなくて、それでも疑問を聞いた。
「その男の子はお兄さんなの? 弟なの? 」
「……兄さんです」
「そっか。じゃあ、お父さんやお兄さんには会えないの? 」
「いえ、月に二回会ってます。だから、寂しくは無いですよ」
 寂しくないならいいのかなと疑問に思いながらも伝えれば、会えないよりずっといいと西川さんは笑った。
 それから、本棚にあるのは何かと聞けば、楽譜だと教えてくれた。ソファから立ち上がって、西川さんは一冊のファイルを取り出した。さっき見た、モーツァルトと書かれたファイルだった。
「これには昔弾いた楽譜がまとめてあるんです。一つ、聞いてくれますか」
「いいの? 」
「もちろん」
 西川さんは微笑んで、僕を練習室に案内してくれた。防音室になっているというそこには大きなピアノがあって、これはグランドピアノだと西川さんは教えてくれた。
 ファイルを開き、楽譜を取り出す。ピアノに置くと、西川さんは久しぶりだと緊張したように言った。緊張をほぐすように胸へと手を置いて深呼吸をして、ゆっくりと鍵盤に手を置いた。
 するとまるで緊張など無かったかのように鍵盤の上を指が動いた。なめらかなそれはどこか踊っているようにも見えて、目を伏せて僅かに体を揺らして演奏する西川さんは僕が人生で一度も見たことがない女の子に見えた。そして何より、その曲はどこか胸がギュッとなるような、王様の部屋で聴いたあの曲だったのだ。
 音楽が終わった時、僕は何も言えなかった。でも西川さんは一呼吸置いて、僕を見た。
「聴いたことがありますか」
 その真っ直ぐな目に、僕は頷くことしか出来なかった。

「兄さんが気に入っていたんです」
 リビングに戻ると、西川さんはオレンジジュースを飲んでから教えてくれた。兄が何度も演奏してくれと頼んでくれて、その度に自分は喜んで演奏したのだと。
「それって、王様のこと? 」
「はい、陽太さんの事です」
 きっとクラスの誰もが知らない事実に僕は驚いて、少しだけ胸が高鳴った。だって、何でも一番で優秀な王様と、テレビで天才だと言われている西川さんが兄妹だなんて、そんなビッグニュースは無いだろう。
 でも、と僕は気がついた。どうしてそんな大きな秘密を僕に教えてくれたのだろう。
「ねえ、どうして僕に教えてくれたの? 」
「羨ましかったんです。兄さんと平野くんの関係が、とても」
「友達ってこと? 」
「親友だということが」
 そうして寂しそうに笑った西川さんに、僕は少し考えてから、それならと提案した。
「西川さんも僕と友達になろう! それで、三人で遊ぼうよ」
 我ながらいい案だと笑えば、西川さんは瞬きをして、眩しそうに言った。
「裕希くんはすごいね」
「あ、名前」
 友達なら名前呼びかなってと、西川さんは嬉しそうに笑っていた。

 その日、僕は駄菓子屋でチョコレートを二つ買った。そしてそれを持って図書館へ向かった。
 図書館の前には待ち合わせをしていた王様がいた。お待たせ、チョコレートをあげると差し出せば、目を丸くしてからありがとうと受け取ってくれた。図書館には夏の宿題でやって来た。新聞から記事を切り取ってノートに貼り付けるというもので、僕の家も王様の家も新聞が無いから、図書館にある新聞の記事をコピーして貼り付けて解決しようと思ったのだ。
 新聞を開いて気になった記事をコピー機で印刷し、ハサミで切り取り、のりで貼り付ける。三つ貼り付けると、その隣に感想を鉛筆で書き込んだ。

 いつも丁寧に調べごとをする王様を待って、僕らは涼しい図書館を出てた。そしてすぐ近くにある日陰の階段に座って休憩する。
 近くの自販機でジュースを買って、チョコレートを食べる。そこで、ふと思い出して王様に声をかけた。
「王様と月音さんって兄妹だったんだね」
 驚いてこちらを見る王様に、僕は教えてもらったんだと伝えた。
「いつの間に」
「ついこの前だよ。なんか、離婚とか色々教えてくれた」
 気まずくなって、ごめんと謝ってしまうと、王様は別にいいとぶっきらぼうに告げた。
「話しちゃいけないことでもないし」
「それならいいんだけど。月音さん、僕らと仲良くしたいみたいだったよ。兄さんが好きな曲だって、モーツァルトのあの曲も弾いてくれてさ」
 そう言うと、ふと王様が首を捻った。
「俺は兄じゃないけど」
「え、でも兄さんって」
「誕生日からすると向こうが姉だよ」
 だから俺は弟だと、王様は言い切った。

「王様は月音さんと仲良くないの」
「仲良くないけど、悪くもない」
「そういえば教室で話してるの見たことないや」
「別に必要だと思わない」
「避けてる? 」
「避けてない」
 図書館からの帰り道、王様とそんな言葉の応酬をした。どうにも月音さんに対して素っ気なくて、僕は首を傾げるばかりだった。僕は兄弟がいないから兄弟の関係なんて分からないけれど、この王様の態度はちょっと違和感があった。
「ねえ、王様! 」
「月音は手を抜いてるから」
「へ? 」
 王様が振り返る。その目は理不尽だと叫んでいた。
「勉強も、運動も、工作も。みんな本当は月音の方が得意なんだ。月音は何でもやろうと思えば一番になれるんだよ。でも、やらないんだ。何でかわかる? 」
 睨むような目と気迫に僕はすっかり気圧されてしまって、何も言えずにただ王様を見つめた。
「月音は俺が努力しているのを知って、身を引いているんだ」
「それは、王様のことを考えているってことじゃ」
「違う。考えてなんかない。だって俺はそんなの望んでない。そんなのいらない! 」
 僕に背を向けて走り出した王様を、僕は追いかけた。待って、待ってと叫ぶのに、クラスで一番走るのが速い王様は僕からどんどん離れて、角を曲がった時にはもう姿が見えなくなっていた。

 王様は逆上がりが出来る子だった。その為にたくさん努力していることを僕は知っていたのに、何も言わなかったんだ。

 月音さんと公園で会った。あの日見失った王様を、僕は探せないでいた。もう、王様という大切な友達と二度と話せないのではないかと、自分が情けなくて、未来が考えられないぐらい悲しくて、まるで暗い部屋に独りぼっちでいるみたいだった。そんな僕の隣に、月音さんはあの時と同じように座ってくれた。僕が少しだけ会話のことを話すと、月音さんは全てが分かったみたいだった。
「所謂、天才っていうのらしいです」
 月音さんは寂しそうに笑った。
「幼稚園の年少さんの時に、私は陽太さんと出会いました。両親の再婚がその時だったんです」
 彼女はまるで物語を話すようにするすると語った。
 幼稚園児の頃、月音さんは何でもできる代わりのように、人見知りが激しかったという。かけっこは一番、お絵描きは何かの賞をもらった。ひらがなもカタカナもすぐに覚え、何より楽器は少し練習すればすぐに体が馴染んだそうだ。
「そんな、人見知りが激しくてひとりぼっちだった私に進んで手を差し伸べてくれたのが陽太さんだったんです」
「すごいね」
「はい。ヒーローでした」
 王様は昔から努力家で、みんなに慕われていたという。今だって、王様というニックネームを嫌味ではなく賞賛としてみんなが認識していることが、つまり慕われているということだろう。少しぶっきらぼうだけど、親切で優しい人だとみんなが知っている。
「だから私は兄さんだと思ってるんです」
 ははと笑った月音さんはしばらく黙ってから、言った。
「両親が離婚してから、しばらくは仲良くできてたと思うんです。でも、すぐに素っ気なくなって。そっか、私は手を抜いてると思われていたのですね」
「違うの? 」
「いえ、正解です。でも手を抜きたかったわけではなかった。演奏家になるためにお母さんにお願いして、様々な楽器の練習をしたり、音楽について勉強したりしていたんです」
「いっぱいいっぱいだった、ってこと? 」
「その通りです」
 月音さんは寂しそうに、自分は器用だが、心には見合った分の余裕が無いのだと。
 話してくれてありがとうと月音さんは笑って、ベンチから立ち上がった。そしてくるりと僕へと振り返った。
「来週の日曜日、十三時からソロコンサートをするんです」
「そうなんだ。すごいな」
「良かったら、見に来てください」
 それでは、と月音さんは公園を出て行った。僕はまたねとその背中に声をかけたのだった。

 コンサートの日。僕は電車に乗ってコンサートの会場に向かった。場所はインターネットで調べたのだ。辿り着いたその会場には人が多く居て、警察の制服みたいなのを着た男の人たちが見回りをしていた。
 僕は入り口まで近付いて、アッと気がつく。チケットを持っていないのだから、見れないのではないかと。
 だから僕は会場の周りを歩き回った。チケット売り場があるだろうと思ったのだが、なかなか見つけられない。困って立ち止ったところを、制服を着た男の人に話しかけられてしまった。
 迷子かいと言う男の人に違うと言って、チケット売り場を探しているといえば、もう売り切れていると言われてしまった。それならばどうしようかと悩んでいると、きみと声をかけられた。振り返ると、月音さんの家にいたタツヒコさんが制服を着て立っていた。
「事情は何となく分かるよ。コンサートが見たいんだね」
「はい」
「じゃあこっちにおいで」
 そう言って僕の手を引くタツヒコさんに、僕はついて行きながら、タツヒコさんは警察官だったんだねと言うとははと笑われてしまった。
「警察じゃなくて警備員だよ」
 そして人を見つけた様子で手を振った。タツヒコさんの視線を追って行くと、なんと入場の列に並ぶ王様がいた。
 僕が驚いて言葉を失っている間に、タツヒコさんは僕を王様の隣に連れて行った。そしてじゃあねと去ってしまう。僕はぽかんと王様を見つめていた。
「え、あ、なんで」
「招待されたから。ほら、裕希の分」
 そうして渡されたチケットに僕は驚いて、また王様を見つめた。彼は息を吐いて言う。
「裕希に渡してってさ。しばらくコンサートの準備で忙しいから渡せないって」
 ほら行くよ、と進みだした列に僕は急いで付いて行った。

 会場はたぶんそんなに大きくない。それでも沢山人が入っていて、僕はキョロキョロと辺りを見回した。
 しばらくすると会場が薄暗くなって、ライトのついた舞台に月音さんが現れた。礼をし、ピアノの椅子に座る。そうして流れ出したのは知らない曲だった。
 それでも、綺麗な音楽を演奏する月音さんの姿が美しくて、僕は演奏に魅入った。プログラムを王様が指で追ってくれたので、僕は曲名を知ることもできた。
 あっという間に時は過ぎ、もうプログラム最後の曲になる。手を止めた月音さんが少し顔を上げた。そして深呼吸をし、演奏が始まった。弾き始めると隣に座る王様が息を飲んだのが分かった。
 それはモーツァルトのあの曲だった。王様が幼い頃に何度もリクエストした曲であり、今でも録音したテープを大切に聴いている、あの曲だった。
 月音さんは特別感情を込めて弾いていた。それが上手なのか、良い事なのか、僕には分からない。けれど、誰かを想って演奏する事はとても素敵な事だと思えた。
 演奏が終わると大きな拍手がワッと起きた。ブラボーと時折聞こえる喝采に、月音さんは立ち上がって礼をする事で応えた。そしてその目が僕と合った時、その目はきっと、僕ではなく王様を見ていたのだろう。うっすらと涙を浮かべている月音さんはとても美しい女の子だった。

 会場を出て行く王様に続く。挨拶とかはしないのと聞けば、しなくていいとぶっきらぼうに返された。人の波を抜けた頃に、僕は王様と並んだ。
 無言の王様は一体何を考えているのだろう。僕には到底理解できないような、様々な出来事が二人には起きていて、何か最適な言葉など僕には思いつかないと思った。
 だから、僕は素直に思った事を伝えた。
「きょうだいって、いいね」
 王様が瞬きをする。いいもんなんかじゃないさと、言った。でも、続けた。
「悪くは無い」
 その口元がわずかに微笑んでいるのを見て、僕は月音さんの思いがようやく伝わったのだと分かった。

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