【太宰視点】


 早朝、目が覚める。開けっ放しだった窓から潮風が入ってきた。風は寒い。俺は寝間着から服に着替えて、部屋を出た。
 二度寝なんて出来やしないと思った。昨日見た、小林の部屋から出てくる杏の姿が脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。
 何か、あったのだろうか。だとしたら、何があったのだろうか。そう考えながら歩いていると、裏庭にやって来ていた。ここからは司書室が見える。杏はいるかな、そう考えて裏庭を歩いていると、ふと、この庭は四季折々の草花が同時に咲いていることに気がついた。紫陽花が咲き誇れば、椿が花開く。それは木々も同じで黄色に染まるイチョウもあれば、満開の桜もあった。

 その桜の下、白と黒の髪が見えて、俺は立ち止まった。幹に手を当てて、満足そうに笑った杏はふっとこちらに振り返る。
「太宰さん」
 柔らかな、開いたばかりの若葉のような、そんな声で俺の名を、嬉しそうに言う。薄いピンクの桜の下、ざあっと風が吹けば吹き飛ばされそうな儚さを持って、白いシャツから白い肌を晒している。
「太宰さん」
 どうしたの。その声が甘やかなものに聞こえた時、ああこれはと俺は自覚した。
(これは恋だ)
 身勝手で、仄かで、下心のある、恋だ。愛なんて上等なものじゃない、これは恋だ。俺はそう認めて、決意を新たに杏へと一歩踏み出した。
 杏は何も分からない様子で俺を見上げている。そんな杏をそっと抱きしめれば、どうしたのと俺の背中に手を回してぽんぽんと背中を叩く。杏の体は女の子にしては筋肉質で、男にしては柔らかすぎた。
「甘えん坊な気分?」
 それなら目一杯甘えていいよと、俺より小さな杏は俺の背中を撫で続けたのだった。
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