運命なんてなければいいのに/賢中/ひとめぼれの話/診断のお題をお借りしました
運命なんてなければいいのにね。宮沢先生はそうやって明るく笑っていた。
運命とは何だろう。それは決められた導きだと本の中の誰かが答えた。
(だけど宮沢先生はそんな事は言ってない)
何かもっと、深くて優しい意味があるのではないか。そう思って俺はそっと目を閉じる。まぶたの裏、想像するのは宮沢先生の詩とそこに浮かぶ情景。ああ、今は本の中だというのになんて悠長なことをしているのだろう。
だけどどうしてか、ここが危険だとは思えなかった。
「運命なんてなければいいのにね」
宮沢先生は繰り返す。優しくて穏やかな声。澄んだボーイソプラノが語りかける。
「だからおいでよ」
ボクのそばにおいで。そう言ってそのやわい手で俺の腕を掴む。その手が存外強くて、俺は驚いて目を開き彼の顔を見る。
すると何てこと!
「宮沢先生、どうしたんだ?!」
ぽろり、ぽろりと涙を流して笑う宮沢先生がいた。悲しいことなんてないよと笑った。寂しくなんかないよと微笑んだ。だけど涙はぽろりぽろりと流したまま。
「お近づきの印にリンゴをどうぞ」
ボクと仲良くしてくれるといいな、何て涙を流しながら言うから、俺は勿論だと答えて、それからハンカチで彼の涙を拭った。
「宮沢先生は笑っていた方がいいぜ」
「うん、ボクもきっとそうだと思うよ」
だけどどうしてだろうね、ここにいるときみの綺麗な歌に埋め尽くされて、どうしてか涙が溢れるんだ。
そう言われてハッと気がつく。そうか、この本は。
「さあおいで、ボクと一緒にアルケミストの元へ」
そうして俺の手をその小さな手で握って、宮沢先生は涙をぽろりと流しながら走り出す。俺もまた走る、走る。そして本の出口、そこに着くと宮沢先生は俺の手を離した。
「最後の質問だよ。本当にここから出ても良いかな」
ここから出ると、侵食者との長い戦いが始まる。そう教えられて、俺は構わないと笑って見せた。
「宮沢先生と一緒なら、どこへだって行けるぜ」
宮沢先生は俺の言葉に瞬きをして、ふわりと笑ってありがとうと囁いた。
「さあ、行こう!」
「ああ勿論だ!」
そうして飛び込んだ光の中、きらめきと歌と文字の世界から、俺はそっと図書館の床に降り立った。
「中原中也だ! え、詩人には見えないって……喧嘩売ってんのか!」
そう言い終えて、そっと司書の隣を見れば、そこにはふわりと笑う宮沢先生が居たのだった。
・・・
「運命なんてなければいいのにね」
宮沢先生は中庭でそう笑った。
「ボクはね、きみがボクのファンだってことを他の人から聞いてたんだ。だからね、どんな人だろうって、きみを連れて来たいと思ってたんだけど」
だけどね、と宮沢先生は言った。
「いざ、きみの魂を見て、ああこの人を戦場に連れて行っちゃダメだと思ったんだ」
こんなに綺麗な心を持つ人を戦場になんて連れて行ってはいけないと思ったのだと。
「だからね、ボクは」
運命なんてなければいいのにって思ったんだよ。宮沢先生はそう締めくくって、さあ図書館を案内するよと俺の手を掴んでそっと歩き出したのだった。