それでも諦めきれなくて/賢(→)←中/宮沢賢治への感情を諦めきれない中原さんの話/診断のお題をお借りしました


 小さなその手が花に触れる。優しい手で、紫色をしたカタクリの花に触れる。これ以上はダメだね。そう言って手を離して、カタクリの花畑で笑いながら振り返った宮沢先生はとても美しかった。
 俺の敬愛する宮沢賢治先生は俺より幼い姿で転生した。俺の敬愛する詩人の魂を宿す少年は、まさしく俺の敬愛した宮沢賢治先生だった。そりゃ、新たな生だから、違うところもあるけれど、俺にとっては全てが宮沢賢治先生そのものだと感じた。小さく、柔らかく、優しい手。丸く、見透かすようでいて、穏やかな瞳。敵に銃口を向ける時の、僅かな哀情。それら全てが、宮沢賢治先生そのものなのだと感じさせた。
 そして俺もまた、転生した文士の一人。当然、俺の体には中原中也の魂が宿る。そう、その魂が叫ぶのだ。あの先生は。少年は、宮沢賢治先生そのものなのだと。
「そんな大したことじゃないと思うけどな」
 宮沢先生はそう言ってふふと笑った。カタクリの花畑。蔵書の中にあった写真集の中に潜書させてもらい、俺たちはこの花畑にやって来た。
「見てごらんよ、あそこに白い花がある」
 綺麗だねと宮沢先生は花を愛でる。俺もまた、その花を綺麗だと思った。それは詩人としての感性とか、そういうのじゃなくて、単にこの花畑で強く生きるその花が美しいと思ったのだ。
「きみは、この花みたいだね」
 突然、そう言われて俺はハッと宮沢先生の顔を見る。先生はにっこりと笑って、腕を伸ばし、俺の髪をさらりと撫でた。
「きみがとっても綺麗なこと、僕はよく知ってるからね」
 だってあんなに繊細な詩を詠うのだもの。宮沢先生はそう言って、はっと立ち上がり、くるりとマントをはためかせて、さあこの先に行こうと俺の手を取った。その手の柔らかなこと、美しきこと。
 どくりと跳ね上がる、心の大きな音のこと。

 諦めていた、心がある。宮沢先生が幼い姿をしているからと、諦めていた言葉がある。だけど、どうだ。今こうして手を握られて、カタクリの花畑を縫うように引っ張られて。走って、走って、頭の中が沸騰しそうなほど、気持ちが溢れてきそうで。
(ああ、諦めるなんて出来ないのか)
 すきだ。その気持ちが深い愛情と共に掬い上げられたようで、俺は何の罪もない宮沢先生を攻め立てることは出来ず、不甲斐ない自分の心にそっと傷をつけた。
 諦めるなんて出来ない。けれど、言うことだけはしないでいよう。想うだけ、想うだけなら許してもらえるでしょうか。最早何に許しを乞いているのか分からない。霞みがかったカタクリの花畑の幻想が、俺の頭を侵食していく。
(嗚呼、これが初恋というものか)
 新たな生をうけて、初めての恋。そうだ、これは初恋なのか。

 霞む視界の中、宮沢先生が振り返る。中原くん。そう笑っていた。
「僕はね、きみがすきだよ」
 きみの感性が、すきだな。そう笑った宮沢先生は霞むように消えていく。俺もまた、霞み、消えていく。その中で、先生の手を初めて握り返して、俺は言った。
「   」
 でもそれは言葉にならなくて。言葉になる前に俺と宮沢先生は霞み、霧の中に解けるように消えたのだった。

 気がつけば本の外。花畑は楽しめたかとつまらなそうに言う猫に、とっても楽しかったよと宮沢先生は笑い、俺もまた楽しかったと告げたのだった。


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