もんじろう、と呼ぶ声は甘い。その甘さで誰が呼んだのか分からず、思わず算盤でせわしなく動かしていた手を止めて入り口の声がした方を見た。そこには見覚えのあり過ぎる作法委員会委員長。

「…何の用だ」
「なに、用がなければお前の処に来てはいかんのか。まあ、用はあるがな」

いつものふてぶてしい立花仙蔵の姿にあの甘い声の気配は無く、潮江文次郎は心の中で困惑する。あの声は確かに仙蔵から聞こえた筈なのだから。

「予算の話ではないから安心しろ。食堂のおばちゃんが数人の六年に力仕事を手伝ってほしいと言っている。暇なら行け」
「…暇じゃねえ」
「だろうな。また予算の計算か」

仙蔵はすたすたと文次郎に近づき、机を挟んで正面に座る。今回もあの一年に苦労してるのか、と笑う姿に文次郎は確信する。コイツは俺をからかっている、と。

「そうだここの作法委員会に予算を」
「やらねえし、増やさねえ!」
「ケチくさいぞ文次郎」
「それで結構だ。さっさと帰れ」
「帰らん」
「じゃあ、せめて静かにしてろ」
「嫌だ」
「譲歩してやったのに…!」
「何故お前に譲歩されねばならん」
「あーもう、好きにしろ」

話が進むことはないと判断した文次郎は仙蔵を放っておくことにして帳簿に向き直った。それを感じ取った仙蔵はただじいっと文次郎を、否、文次郎の作業姿を見始めた。それに文次郎が気がつかぬ筈が無く、いつも以上に訳の分からない仙蔵の行動に、訳が分からんのはいつもの事だと無理矢理結論付けて計算を続けた。

やがてやる事が終わると、まだ文次郎を見続けていた仙蔵にやっと声をかけた。

「おい」
「何だ」
「…もう帰るぞ」
「ならば私も帰ろう」

立ち上がる仙蔵に、文次郎は呆れた目をする。まさにその目は、コイツは何がしたいんだと、語っていた。

「お前何か変なもんでも食ったのか」
「それはお前だろう」
「いつも食ってるわけじゃねえよ」
「そうか。ならば食堂に行こう」
「おい、聞いてんのか」
「夕食時だからな」
「…もういい、好きにしろ」

文次郎は諦めて仙蔵と食堂に向かうのだった。





満足論
(私は声を掛けるだけで満足なのです)
(私は見るだけで満足なのです)
(触れなくたっていいのです)


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