15.おつきさまのしゅうまつ
宮沢視点


 朝の光、ぼくは居間でそのまま寝てしまったみたいだ。薄く目を開くと、とんとんと軽い音がして、暖かな陽射しと匂いを感じた。
「おはようございます」
 新美さんが朝食を並べながら言うから、ぼくはおはようって笑った。笑うしかなかった。

 朝食は豆腐の味噌汁と白いご飯。そしてかぶの浅漬け。簡単だけど、心のこもった料理だった。新美さんの作ったご飯を食べ終えてから、ふと新美さんが食事をしていないことに気がついた。柱の傷を見る。六つ。そして、今日は七日目。例の、消えると言っていた日の朝だった。
「食べないのかい?」
 ゆっくりと聞けば、新美さんは寂しそうに笑った。
「処分の時が来たんです」
 処分、それが一昨日言っていた消える、死ぬということなのか。
「どうすればそれを防げる?」
「どうしようも無いです」
 だって、不必要なものが増えすぎた私は必要無いから。新美さんはそう言って目を伏せた。
「不必要だなんて、新美さんにそんなものはないよ」
「こころ」
 ふっと零された言葉に目を見開く。心、心と彼女は言ったのか。
「心にものが増えすぎたんです。だから初期化しないと」
「そんなの、あんまりじゃないか」
「そうかもしれません。でもどうか貴方は」
「ぼく?」
「いえ、何でもありません。ああでも、今言わなくちゃいけないのかな」
 新美さんは、寂しそうな目をぼくに向けた。その目は寂しそうで、寂しそうで見てられなかったのに、視線を外すことは考えられなかった。
「私、姉も祖父母もいたけど、お父さんはいなかった」
「……え」
「宮沢さん、貴方は私にとって父親のような人でした。だから、」
 最期にお父さんと呼ばせてください。
 声は震えていた。その父親というものが、新美さんにとってどれ程の重さを持つのか、ぼくにはよく分からなかった。でも、昨日新美さんが言っていたことが何もかも事実だというのなら、もしかしたら新美さんは人間ではないのかもしれない。そんな風に思った。そう、彼女には今彼女が言ったように、父親が存在しないのだと。
 だからぼくは、少女に向けて頷く。
「構わないよ」
「ありがとう、ありがとうございます、"お父さま"」
 さよなら。そう続いた言葉を新美さんは音にできなかった。
「……ぁ」


 新美さんが消えた。七日間、ぼくと共に過ごした新美さんは、ぼくの目の前で亡くなったのだ。


 ぼくが座っていた居間が消えていく、暮らした家が、商店街が、公園が、海が、消えていく。残されるのはただ独りぼっちのぼくと、真っ白な空間だけ。その中で、ぼくはぼんやりと宙を眺めて座っていた。長い事そうしていたような、一瞬のような短い時間だったような。
 ぼんやりとした意識の中、気がつくと、ふわりと宙から少女が舞い降りてきた。白く艶やかな長い髪、黄色の目。消えた筈の新美さんにそっくりな少女は、ぼくを見て不思議そうな顔をした。
「貴方はどちら様かしら」
 少女が軽やかに問いかける。
「ぼくは、ぼくは宮沢賢治」
「宮沢さん?」
 その呼び方にずしりと胸が重くなる。しかし少女は気にしない。気がつかないようだった。
「貴方は何故ここにいるのかしら。ここは何もないところよ?」
「そう、だね。もう、何もない」
「ええ、そうよ?」
 少女はしばらく考え込み、ねえと上空らしき方向へ声を上げた。
「この人を在るべきところへ帰してくれない?」
 しばらくの静寂。しかし少女には何らかの声が聞こえてるらしかった。
「ええ、ええ勿論。記憶のリセットは必要でしょうね。だってこの人、人間だもの」
「なに、を」
 何か、恐ろしいことを言っている。そう気がついて声を出したが、少女はにこりと笑った。
「うん。これで貴方は帰れるわ。代わりに私と会った記憶も消えるけれど、いいかしら」
「それは、それはダメだよ、そんなの、ぼくは」
「でも帰るなら必要だわ。だって貴方は人間だもの」
「そんな」
 そんなのあんまりだと思った。ぼくをお父さまと呼んだ、夢のような少女との記憶を忘れてしまうなんて、とんでもないと思った。
 戸惑うぼくに、少女は首を傾げる。
「そんなに私と会った記憶が大事なの?」
 その言葉に、僅かに期待していた心が打ち砕かれる気がした。そう、この少女は新美さんに良く似てる。でも、この少女は新美さんではないのだ。
「君は、覚えてないんだね」
「え?」
「ああいや、気にしないで。そう、もうあの子はいない」
 いないんだと言い聞かせるように呟けば、もしかしてと少女は閃いたらしかった。
「もしかして、貴方は私を知ってるの?」
「答えてもいいのかい」
「貴方が縋りたいのなら」
「そうか、止めておくよ」
「そう、賢い人ね」
 にこりと笑った少女の、その笑みはお姉さんを想って笑う新美さんとは全く違う、表面的な笑みだった。壁を感じる。他人への反応だ。
 でも、それでもぼくはどうしても、彼女の死を乗り越えるために聞きたいことがあった。
「でも、一つだけいいかい」
「どうぞ」
「ぼくのことをお父さんと呼んでくれないかな」
 一度きりでいいとぼくが願うと、少女は驚きで目を見開いてから小首を傾げた。

「お父さま?」

 その言葉にぼくは嗚呼と涙と笑みが溢れた。新美さんはもう居ない。彼女は新美さんではない。だけど、新美さんに良く似た少女がぼくをもう一度父と呼んでくれたことが、こんなにも嬉しくて、悲しかった。同時に、本当に新美さんは死んだのだと、実感できた。
 そして急激に意識が遠のいていく。遠くなる意識、感覚。思わず新美さんに似た少女に手を伸ばすと、少女が口元に手を当てて驚いている姿が、ぼやけた視界に映った。





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