信じることからはじめましょう/スイ→ミナ/ミナキの成長記/スイクンの光源氏計画/犬≠スイクン/ちろっとモブ学生



 その美しさは慈しみで出来ている。
 スイクンというポケモンを知っているだろうか。涼やかで神秘的な見た目と、水を浄化する力を持ったポケモンだ。各地を移動して生き、人前には滅多に現れない。静かに生きるポケモンである。
 そして私ことミナキはそんなスイクンに魅せられた人間の1人だ。

 最初はスイクン伝説から。ホウオウ伝説の外伝と位置づけられたものを最初に私は見た。それは子供向けではなかったが、祖父が私にも分かるように四苦八苦しながら噛み砕き、話してくれた。そんなスイクン伝説に、私はワクワクとしたのだ。心を掴まれるような天命を受けた気がした。
 それからの毎日はスイクン伝説を理解するための勉強の日々だった。スイクンには実在を確信するような逸話や目撃情報が絶えず、やがてそれはスイクンのありとあらゆる逸話の収集にのめり込む要因となり、まだ幼さが残る少年の私は各地を移動した。

 その中で、私は彼(彼女)に出会ったのだ。

 薄紫色の鬣(たてがみ)、水色の体に三色の模様、流れるような白い毛。すらりとした肢体に、澄んだ瞳。それは逸話に語られるスイクンそのものだった。
 私は息をするのも忘れ、スイクンを見つめた。魅入っていたのだ。どうしようもなく。理屈では無い何かが体の中を渦めき、感情を名付けよと叫んでいた。
 スイクンは美しく澄んだ湖の上に立って水を飲んでいた。その頭をふっと上げると、私をじっと見つめた。その目は水のように澄んでいて、なおかつ試すような色を帯びていた。私はただ呆然と、ただ唖然としていた。その時の私はスイクンが襲いかかってくるとは思えなかったし、今もそうだと思っている。スイクンは人よりも他のポケモンよりもずっと強く、聡明なのだからと。

 スイクンはゆるりと動く。その前足は私の方に、一歩一歩。私はもう何も出来ず、倒れるように地面に座った。スイクンはゆったりとした動作で私に近づいてくる。そして手を伸ばせば触れる距離で一度止まった。頭を動かし、鼻先を私の鼻に触れさせた。しっとりとした冷たさが私の体を震えあげさせる。これは夢のようで、夢では無いのに、やっぱり夢なのだろうと思ってしまった。
 スイクンはそのまま鼻先で頬を触り、首筋をなぞり、私の指先をつついた。私が反射的に指先を動かすとスイクンはそっと離れ、私と見つめ合う。
 気がつけば揃ってゆっくりとした瞬きをしていた。

 スイクンがそっと後退する。私は言葉を発しようとして、ひくりと喉を震わせただけだった。スイクンは一度止まり、その場で水面を強く蹴って跳び上がった。そして私を跳び越えて森の中へと駆けてゆく。
 私はアアと声にならない声をあげながら、震える両手で自分を抱きしめた。あれがスイクンであり、私が調べていた逸話のポケモンなのだと実感した。私が、追い求めた逸話達の、私が調べたかった、知りたかったポケモン。
 そう、体の中に渦めく感情は、憧憬だ。憧れというそれが私の中の感情の名なのだ。名前を得た感情が体の中から溢れ出す。きらきらとしたそれが私の全てを食い尽くす。
 初めての体感だったが、その心を食い潰すような感覚だけは幼い頃のあの感覚と似ていた。
 今思えば、私はスイクン伝説を祖父から聴いたあの瞬間に、スイクンに心臓を残さず食われていたのだ。

 彼(彼女)の存在を確認した私はよりスイクンの逸話にのめり込み、スイクンと会うべく各地を飛び回った。目撃情報を集め、各地を転々とした。それは辛く苦しい生活だったのに、とても楽しい日々だった。最後にスイクンは私を選ばなかったけれど、それ以上にスイクンは私に激情を教えてくれた。心身を食われた身としてはスイクンをゲットして従えるというのは、実はぴんときていなかったのだから、この結果は当たり前だ。
 それからの話は古い友人と会ったり、スイクンの伝説と逸話を集めた本を作るのに忙しくしていた。本が書き上がると大学の非常勤講師になる話を受けて、スイクンの伝説と逸話を学生たちに話した。

 そして今、三人の教え子と森の中を歩いている。先生もう少しですかと楽しそうな彼らに、私はもう少しだから頑張りなさいと笑いかける。教え子たちにせっつかれて向かっているのはスイクンと最初に出会ったあの湖だった。
 選ばれたあの子はスイクンを逃がしたという。古い友人伝えのそれに私は驚いたことを覚えている。しかしきっと妥当だったのだろう。それはあの子がスイクンを持て余すからではなく、スイクンは各地を飛び回り、水を清めて旅をするのが似合っているということである。
 先生見えて来ましたよと一人の教え子が駆けてゆく。私は急ぐと危ないぞと笑いながら、湖と対面した。とても澄んだ湖は、どうやらついさっきまでスイクンが居たらしかった。それを伝えると教え子たちは残念がったが、見たことも無いほど美しく澄んだ水に感動していた。私はそんな教え子たちを微笑ましく見ながら、そっと湖を見渡すように水面を見た。すると、湖を挟む森の奥だった。

 薄紫色の毛が揺れている。

 私はその本物の輝きに魅入られるように湖を進んだ。教え子たちの不思議そうな声と焦った声が遠くになっていく。ボールから長年の友であるポケモンたちが飛び出し、教え子たちに向かっていったのをうっすらと感じた。そして腰まで湖に浸かった頃、急に足を踏み外すように私は湖に飲まれた。
 何故か焦ったり混乱したりといったことは無かった。ただ、水泡が口から溢れる中、誰かが私を水面に戻してくれた。
 げほげほと水を吐くと、私は顔を上げた。そして目を開き、助けてくれた誰かを見た。
 それは懐かしいスイクンだった。

 ひゅっと息を飲む。しかしすぐに心臓と呼吸は落ち着いた。
「また出会えたな、スイクン」
 私は微笑む。声は震えていなかった。当然だ。私は何十回とスイクンと対峙したのだから。そして、震えのない手でそっと彼(彼女)の鬣を撫でた。スイクンは目を細めて私の頬に鼻を擦り寄せた。
「スイクン、少しだけいいか?」
 私がそう問いかけると、スイクンは目を開いて頷いた。私は微笑みながら、続ける。
「ありがとう。本当にありがとう。生まれてくれてありがとう。私に姿を見せてくれてありがとう。きみの全てに感謝しよう。きみの全てはきみの魅力だ」
 私はいつかの彼(彼女)のように、そっとスイクンの鼻に鼻を擦り寄せた。そして顔を離して、私は首をやんわりと抱きしめた。
「これからのきみに、たくさんの幸せが訪れますように」
 言いたいことを言い終えた私はそっとスイクンから離れた。スイクンはやさしさの中に心なしか憂いを帯びた目をして私を見ている。その目を受けて、私は穏やかに言う。
「私が人生を全うして、またこの星に生まれられたのなら、私はまたきみと出会いたいぜ」
 その言葉にスイクンは頷き、そっと私の手の甲に鼻を擦り寄せてから、いつかのように後退した。
「またな」
 私がそう言うと、スイクンは力強く水面を蹴った。教え子たちが少しざわついたけれど、私もスイクンも気にすることはなかった。

 帰路の中の教え子たちは少しだけ口数が少なくなっていた。そのことを森に近いタウンで聞くと、確かに感動したし感激したと言った。しかし、それ以上に切なかったのだと言った。
「切なかった?」
 教え子たちは頷くと、目を合わせてから一人が代表として口を開いた。
「スイクンと先生の会話で、時間の流れの差や愛情を感じて。それがとても切なかったんです」
「時間の流れは分かるが愛情は」
「あ、いえ、愛情というか、いや愛情というのが一番しっくりするのですが。親愛や友愛や、そういうの全部が先生とスイクンの間にあるような気がして。」
 その言葉に、確かにと納得する。私にとってスイクンは情熱を注ぐ対象だったのだから。
 しかしそこで他の教え子が発した言葉に私はピシリと固まった。
「キスしてたしね」
「……。いやいやいやいやいや。」
「えっでも鼻を」
「ただのスキンシップだからな?!」
「スイクンの雰囲気とかすっごく」
「スキンシップだからな?!」
 教え子たちは目を合わせて、それからくすくすと笑い出す。私はもう何を言えばいいのか分からず、遠くを見つめたのだった。

 スイクンよ、きみはよく分からない誤解を置いていってくれたな。



title by.恒星のルネ

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