チリオモ/結晶、手紙、外のにおい/オモダカが失踪した話/そのうち続きます


 明日を選ぶか、昨日を後悔するか。チリはまだ、それを選べずにいる。

 オモダカが執務室に呼び出した。どうやら四天王が順番に呼び出されているようで、チリが一番最後だった。
 何の用だろう。他の四天王の顔を見ても、皆が何ら訳がわからないという顔をしていた。
 だから、チリは何の心構えも出来ずに、オモダカの執務室に来た。
 オモダカはいつものように太陽に背を向けて座っている。書面から顔を上げて、微笑んだ。
「おはようございます、チリ」
「おはようさん。こんな時間に呼び出すなんて珍しいやん」
「そうですね、少し相談したいことがありまして」
 相談。チリは眉を寄せた。オモダカらしくない言葉だった。彼女は何事にもワンマンだ。でもでしゃばり過ぎないのが、彼女だった。だから、カリスマ性が無いと陰口だって言われる。チリたちに言わせれば、何とも的外れな言葉だったが。
「こちらの屋敷をしばらく管理してもらえませんか」
「んん?」
 渡された書類には住所と屋敷の外見の特徴が書いてあった。だが、それだけだ。オモダカの持ち家はパルデアに幾つもある。だから、その一件を任されるぐらいどうって事はない。
 だが、何だかチリは胸の奥がザワザワと騒いだ。
「何で?」
 平然を装って言えば、オモダカは何でも無いように、言う。
「その家には"大切なもの"があります。ですから、チリに守っていただきたいのです」
「総大将が守ればええやん」
「私は忙しいので。現に、最近はその屋敷に帰れていません。チリの自宅から離れているので、管理が面倒かもしれませんが、どうか引き受けてはくださいませんか」
 そこまで言われたら、チリとて頷く他ない。オモダカはそれを見ると嬉しそうに、よろしくお願いしますねと笑った。
 そして、話は終わりらしかった。チリは退出しようとして、ふと、気がつく。
「なあ、この話、みんな同じなん?」
 はて。オモダカはキョトンとしている。
「屋敷をひとつずつ預けていますが、同じ屋敷ではありませんよ」
「そら、そうやろな」
 それだけしか、今のチリには言えなかった。

 次の日、オモダカはリーグに出勤しなかった。
 その次の日も、オモダカはリーグに出勤しなかった。
 その次の日も、その次の日も、オモダカは姿を見せなかった。

 気がつけば、アカデミーにも、建築家としての取引先にも、他の人に引き継ぎを全部済ませて、オモダカは姿を見せなくなっていた。

 そう、オモダカは忽然と、チリたちの元から、消えたのだ。

 オモダカがいなくなったことはトップシークレットとして扱われた。知るのは限られたリーグ職員と、四天王と、ジムリーダーのみ。メディアも取り上げなかった。なぜなら、メディアの方にも、オモダカは根回しをしていたのだ。
 トップチャンピオンが消えたパルデアだったが、抜けた穴を皆が上手いこと見ないふりをして、日常は巡った。変わらなかったのだ。オモダカが消える前と、消えた後。その二つが、何ひとつ、パルデアにとって、変わらなかったのだ。
 誰にも何も言わずに、バケーションに出かけたのでしょう。ハッサクが疲れ切った顔で言っていた。そんなわけが無いと、分かりきった上での発言だ。ハッサクは重圧と責任を知っている。そこから逃げることの苦痛も知っている。だから、オモダカがそれを選択したとは、思えなかったのだ。
 休んでるだけでしょう。アオキは言った。それ以上は言わなかった。だが、空き時間を見つけては、パルデア中を歩き回っていた。そらをとぶでも、モトトカゲに乗っても、どうしても見逃してしまう小さな痕跡がある。それを探すために、アオキはその足で歩き続けていた。
 ポピーはなにかわるいことをしてしまったのでしょうか。彼女はそう言って大きな目から涙をこぼした。彼女はとてもオモダカに懐いていた。自分の才覚を一番最初に見つけてくれて、一番に力を発揮できる環境を与えてくれたオモダカを、心の底から尊敬していた。だから、オモダカが、そんな仕事の全てを投げ出したとは、考えたくなかったのだ。オモダカが悪くないのなら、悪いのは自分だと、ポピーは幼い心に傷をつけた。
 チリは何も言えなかった。ただ、オモダカのいない執務室で、オモダカの代わりに動くチャンピオンクラスたちの会合を見守っていた。案が出ては消えて、案が出ては採用して。その繰り返し。時には無茶な案をトライして、失敗する。トライアンドエラーを繰り返して、チャンピオンクラスの人々は成長していった。チリはその成長が、オモダカの不在故のものたのだと、分かっていた。だから、何も言えなかった。チャンピオンクラス、ネモは言った。
「トップはどこにいるんだろう」
 チリが、一番、知りたかった。

 チリは管理を任されたオモダカの屋敷に来た。鍵を開けて、鉄の飾り扉を開く。屋敷の扉へと続く石畳を進む。コツコツとチリの革靴の音がする。その屋敷は大きな温室がある。老齢の庭師を雇っているらしく、深い笑い皺を持つ彼女はチリを見かけると深く頭を下げた。
 屋敷の中はうす暗い。廊下に窓がないのだ。代わりに、全ての部屋に大きな窓があることが、チリにはもう分かっていた。その中の一室、オモダカの執務室らしき場所。本棚が天井まで伸びたそこには埃ひとつない。チリが定期的に掃除しているからだ。いつオモダカが帰ってきてもいいように。チリは願いを込めて換気をし、掃除をする。机の上には書きかけの手紙があった。

拝啓 ×××様
わたくしは逃げないと決めたのです。
これはわたくしの罪なのです。
すべて、わたくしの行ったことです。
わたくしがしたことは悪だったのです。
このことは全て、わたくしに返ってくるべきです。
そうでなければなりません。
どうか、この手紙を読んだあなたが、
気を病むことがありませんように。
そして、もしこの手紙を全て書き終えられたら、
ぜひ、×××様に読んでいただきたいのです。
そうすれば、

 そこで、ペンのインクが深く染み込んでいた。タールのような黒だった。チリには、この手紙の意味が分からない。でも、オモダカが何かを気にしていたのは確かだった。
 だったら、どうして相談してくれなかったのだろう。チリじゃなくても、良かった。誰かに相談して、少しでも解決の糸口をみつけて、そして、チリの前から消えて欲しくなかった。
 チリはどうしようもなく、オモダカに会いたかった。言いたいことは無い。ただ、抱きしめたかった。悪いことは何も無いと頭を撫でたかった。あの、どこを見ているのか不思議になるような黒い目に、チリをうつしてほしかった。
「愛してる」
 溢れた言葉は本心だった。

 その日はその執務室で本を読んで夜を明かした。すると、かこん。と小さな音がした。チリは不思議に思って執務室を出る。廊下を歩き、屋敷を出る。門の方を見ると、郵便屋が去っていく後ろ姿が見えた。何か、届け物だろうか。オモダカが忘れていたネット通販のものだろうか。そんな気持ちで、郵便受けを見た。
 そこにはポストカードがあった。青い海、白い砂浜。大きな灯台があった。だが、その風景はパルデアのものではなかった。
 裏を見る。そこにはよく見慣れた字で、この屋敷の住所とオモダカの名前。そして、小さく、チリへ、と書いてあった。
「あ、は、」
 チリは崩れるように郵便受けの前で座り込んだ。
 生きてる。オモダカは、パルデアはないどこかで、生きている。
 オモダカはどこかで死んでいるのではないか。なんて、考えないようにしていた最悪の想像が、覆されたのだ。
 チリの目から熱い涙が一筋、流れた。そして、ポストカードを空に掲げる。この写真がどこか、なんて事はネットで調べればすぐに分かることだろう。でも何より、オモダカが遠い地からチリのためにこのポストカードを送ってくれた事実が、あまりにも愛おしかった。

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