チリオモ/混乱


 楽しいばかりの話をしよう。苦しかった話をしよう。転んだ目にうつった空の話をしよう。たくさんの話をしよう。
「やめるときも、すこやかなるときも、」
 永遠を約束しよう。

 夢を見ていた。懐かしくて、胸が満たされるような夢だった。失意は無く、無念もあり得ない。充足と謳歌のみが爪先まで沁み渡る。ああ、自分は今、満たされている。その感覚がさざなみのように強弱を繰り返す。あれ、なんだかおかしいな。そう気がついた時には、掬い上げられていた。
「チリ」
「あ、」
 優しい目だ。穏やかで温かな目。この目を怖いと言う人たちがいる。その事が信じられないくらいに、チリはこの目を好んでいる。
 黒い服を着た彼女が、爪先まで揃えて座っていた。
「いま、何時」
「十時です」
「そうなんか」
「よく眠りましたね」
「チリちゃんも、たまにはよく寝んとな」
「そうかもしれません」
「せやろ」
「飲み物を取ってきますね」
「うちは水がええな」
「おいしいみずでしょうか」
「せやね、それが」
 はた、と気がつく。オモダカの黒い髪がキラキラと輝いていた。
「髪、切ったん?」
「少しだけです。整えたぐらいですよ」
「そうなんか」
 この髪に誰かが触れた事実がこころに引っかかる。果て、何故だろう。チリは今、満たされているのに。足りているのに。何が。
「なあ、スーパー総大将さん」
「はい」
 自分はどれだけ寝ていたのだろう。

 目覚めた。そこには老婆がいた。遠くからよく訪ねてきたね。老婆はそう言うと、チリを椅子に座らせた。
「細いね」
「ぎょーさん言われますわ」
「そうかい。ビートに重湯を作らせよう。記憶はどうだい」
「混乱しとる」
「それだけ分かれば充分さ」
 魔女だ。チリは思い出す。目の前の老婆は識る人だ。ぷかぷかと見慣れぬポケモンが宙を浮いている。さてはて、老婆は言う。
「決してはなしてはいけない事がある」
「何が?」
「糸を持ちなさい。出来れば銀で出来たものがいい」
「はあ」
「名前をつけなさい。その名を心の中に秘めなさい」
「はあ?」
「最後だ。目を離してはいけないよ」
 それで充分さ。魔女はにっこりと笑った。

「ポプラさん、重湯持ってきました」
「ああ、ビート。そこのベッドに置いておくれ」
「チェストでいいですね。誰かお客でも?」
「ああ、もう帰ったよ。妖精が力を借したのさ」
「なんですかそれ」
「いいから、今はただ、疲れ切った妖精を労わっておやり」
「もしかして、昨日の夢見ですか」
「いや、無いよ。でも、緊急だったねえ」
 そうだ。花火の音が聞こえる。
「年が明けたね。ビートにプレゼントがあるよ」
「ピンクですか」
「よく分かったね」
「いつものことなので。ケーキなら作りましたから」
「じゃあ紅茶を淹れよう」
「ポプラさんはお酒ですか」
「垂らすだけさ」
「寝酒になりません?」
「どうせ今夜はろくに眠れないさ」
「は?」

 無から夢が生まれ、夢から胸(ハァト)が形作られる。
「人の心は胸にはありませんよ」
 ボタンが淡々と言った。
「脳にある。だって、人は考える生き物ですから」
「何でおるん」
「居たくているわけじゃ無いです。オモダカさんが、席を外しているので」
「律儀やなあ」
「弱みを握られてるだけです」
「わはは、せやったな」
 怖いですよ。白いシーツの海にいるチリに、ボタンは言う。白い部屋。陽の光が柔らかく射し込む。いい部屋だと思えた。
「共倒れしそうです」
「それだけは無いやろ」
「疲弊してるじゃないですか」
「あの人はそう簡単に倒れんよ」
「チリさんにも言えます。それなのに倒れてるんです」
「……魔女に会うたわ」
 ボタンがまじまじとチリの顔を見る。チリは笑った。
「オモダカに会わせてや」
 白い部屋には黒が足りない。
 チリの満ちた世界には黒が必要だった。
 耳元のシルバーアクセサリーが冷たく感じる。
 こころは頭にあるらしい。だったらこれはきっと、こころではない。もっとエゴイスティックな“愛”だった。
 言うつもりはない。唯、あの優しい目が見たかった。

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