◎いろは歌


膝大包


 いろはにほへと。

 色は匂えど。すん、膝丸は鼻を鳴らした。美味しい匂いがする。甘い果実のような匂いに、何だろうとふらふらと吸い寄せられるように膝丸は歩いた。

 行き当たったのは歌仙寮の縁側で、おやおやと寮長たる歌仙が目を見開いた。
「何とも、珍しいね」
「意外な刀が釣れたな」
 奥から、大包平の声がする。歌仙は全くその通りだとクスクス笑う。そうして、膝丸に声をかけた。
「香で遊んでいたところでね、きみも平安刀だろう、少しは知識があるんじゃないかい」
「俺は、そう詳しくはない」
 せいぜい、あやかし避けの香ぐらいだ。そう言うと、それは残念だと言いつつも歌仙は楽しそうにしている。

 部屋に入ってご覧よ。言われるがままに縁側から室内に入ると、ぶわりと甘い匂いがした。室内では蝶が飛び交い、歌仙と、大包平を彩る。歌仙も大包平も、いつもの戦装束から、武具を取り外した身軽な姿だった。大包平は特に堂々と上座に座り、蝶を侍らせている。
「おや、僕以外も来たんですね」
 廊下の戸が開かれる。宗三がけろりと部屋に入った。
「蝶が多くはありませんか」
「何、そのうち飽きるさ」
 よく分からない会話に膝丸が首を傾げていると、大包平が近くに来るといいとシャンと背筋を伸ばして言う。
 誘われるままに大包平の隣に座ると、庭が見えた。歌仙寮の庭は、いつ見ても凝っているとしか言いようが無い。今日は大輪の百合が咲き乱れていた。
「立派なものだな」
 素直な感想を述べると、それはそうだなと大包平がくつくつと楽しそうに笑った。まっこと、絵になる刀だ。膝丸はうっとりと見つめてしまう。大包平は気にせずに指を伸ばし、蝶を止まらせた。
「蝶は霊魂を示すと言う」
 これは鎮魂だ。大包平はゆるりと笑った。歌仙と宗三も、その通りだと頭を揺らす。
「膝丸がここに来たのも、理由があるのだろう」
 匂いは、そう遠くまで運ばれるはずがないのだから。膝丸はハッと息を呑んだ。今日は、今日という日は。
「祈ろう。俺たちは、俺たちなりの信条を持って祈るんだ」
 ゆうるりと、笑む大包平は、甚く、美しい。

いろはにほへと。

 いろは、はここに。



05/14 21:35
- ナノ -