至高の菓子

考える。何が一番良いのかと。
考える。何が一番好ましいかと。
考える。
考える。




漫ろ寒い落陽の廊下。先へ運ぶ爪先へ冷えた風がまとわりつく。就業を告げる鐘が鳴ったその後はあっという間に夜へと沈む季節だ。遅くなり過ぎないよう少しでも早く目的を済ませねばとひた進む。
静まり返った教科棟を滑るよう足を運び。人目につかぬよう目を配る。別にもうそこまで気配を消す必要は無いのだけれども、忍び足はまだ暫く抜けそうにない。

そうして辿り着いた、白い調理室の入り口。呼吸を整えようと一度深く息を吐き出して、手を伸ばす。微かに漂う甘い薫りを番にした戸は、ゆっくり横に引いたつもりなのに大袈裟に音を立て静かな空間に嫌に響いた。立て付けくらい直せば良いのにと眉を顰めて入り込んだ教室は人の気配など無く。ガランと空いた調理台の並びをぬって窓際へ。
暫くこの教室を使う授業は無いとの事だったけれど、使わせてもらえないかと教師に打診した際適当に材料を追加しておくと軽く了承された。授業でもクラブ活動でもないのに良いのか躊躇ったがあの笑顔に一先ず甘えさせてもらおう。そうして持ってきたエプロンを置こうとしたところで、違和感に瞬いた。

窓辺に下がる物干し台に新しい布巾が掛かっている。
湿り気でやわく揺れる布地。どうやら少し前まで誰かが来ていたらしい。騒動の間活動を控えていたクラブの生徒も少しずつ戻ってきているとも聞く。この調理室もそのクラブの一環で使われたか。
ゆっくりと元の日常へ戻ってゆく学園。活動も、人の繋がりも。
良い事であり、当たり前の事の筈だが、どうにも気持ちが追い付かない。置いて行かれるような焦燥感だけ浮かび唇を噛んで目をそらす。

懊悩。
憤懣。
悲憤。

喉奥で苦みが浮かびかけたのを無理やり飲み下し。鉢合わせなくて良かったと思うことにして脇に備えられた棚から丁寧に仕舞いこまれた本を取り出した。
パラリパラリとページを捲りつつ籠や冷蔵庫を覗き込む。詰められた食材の様子を見、材料を足したのは他の人のついでかと納得して少しだけ罪悪感が薄まったところでガタガタと背後の戸が開いた。


「おや、いらっしゃい。よく来たね」

「……こんにちは」


はい、こんにちは。と微笑む教師に会釈してまた紙面に目を落とす。久方振りに顔を見せた生徒へ何それとも聞かず、毎度まるで一日振り程度の気安さで口をきく教師はプリントの山を小脇に足取り軽く寄ってきた。


「今日は何を作りますか?」

「…………」


何気ない問いへ口を噤んで眉を顰める。
覚悟を決め、この調理室へやって来たは良いけれど。何を作ろうか。それがなかなか決まらない。
以前までならば自分が何と無く作ろうと思ったものを思うように作っていた。迷うならば適当に開いたページのものをと。
けれど今回の主体は自分ではない。『誰か』の為に作るもの。


その『誰か』さんはどんな思考をしていて。どんな嗜好を持っているのか。
好きなもの。嫌いなもの。食べられないもの。今欲しいもの。
知らない。何も知らない。

知らないなら聞けば良いときっとあの子は言うだろう。素直さが羨ましく、ほんの少し妬ましい。

黙りこんで溜め息を漏らす生徒を教師はニコニコ笑いながら見下ろして口を開いた。


「あなたが初めて作ったお菓子、おぼえていますか?」

「いえ」


首を横に振り手元のページを捲る。ここに気始めた切っ掛けすら、朧気な記憶。遠く霞がかった


「では、あなたが初めて感想を貰ったお菓子は?」

「…………」


ふふふ、と口元を隠した教師を横目で見る。視線を受け止めた教師は棚の端の方で傾いて立っていた本を取り上げポン、と手元に乗せてきた。終わったら声を掛けるよう言い渡しペタペタと上履きを鳴らして準備室へ向かう姿を何とも言えずに見送る。気を取り直そうと首を振って手元へ意識を向けようとすると、戸に隠れる間際だった頭がふと何か思い出したようにこちらへ向いた。

「あぁそうでした。この教室にあるものは全部好きにして良いですからね」


返事も聞かず引っ込んだ背中から手に残された本へ黙って視線を移し暫し。緩慢に開いたページに載っている材料を確かめにもう一度冷蔵庫を覗くと、全て揃えて置いてあった。何もかも見透かされているようでいけ好かない。けれど。
悩む時間もあまり残されていないから。材料も丁度揃っているのだから。
それ以外のものが思い浮かばなくなってしまった頭で言い訳を並べ立て、転がる使いかけの材料を手に集め調理台へと運び出した。

分量を計り、材料を混ぜ、生地を捏ね、型を抜く。

どうしたものかと思い悩みながら淡々と工程を進める内に、こういう時は何か気持ちを込めるものかとふと考えて。教師と、あの子の言葉を思い返す。

そのままを。今のままを。この、今の自分を。
兎に角どうにかしてでも、伝えたいものを伝えられるよう。

いっそ不味くなってしまえ、なんてと思ったことに一人笑いながら焼ける生地を眺める。

お菓子作りは時間が掛かる。
すっかり日が落ちて薄暗くなった天と対象に白々しい明りの下艶々しく照る菓子を皿へ移す。まだ熱い生地を冷ましてやりながらその成果を確かめて。久し振りにしては悪くない出来に安心し。そうしたところで、迷いが出た。

作りきったは良い。これを、どう渡すというのか。

出来上がったものをジッと見降ろして思い悩む。渡す、イメージが浮かばない。こっそりロッカーへでも、とも考えたが人に見られた時が恐ろしい。
うんうん頭を捻って。一先ず今回は作れただけでも進歩だと思おう。そう自分を甘やかして皿を持ち上げ廊下側の戸棚へ向かう。


「え?」


いつも、いや、少し前まで度々作ったものを置いていっていた棚の中に、既に先客がいた。こじんまりとした深手の陶器の皿。別段自分が専用で使っているスペースではなかったけれど、他人がこの場を使っているのを見たことがない。何事かと皿を引き出して見れば、入っていたのは今自分が作ったものと同じ菓子。だがしかし、見た目はどうにも不格好なものだった。
困惑しながらもそういうこともあるかと戻そうとして。棚に一切れメモ用紙が落ちている事に気付いた。要件などは無く。ただ、英字が2つ並んでいるだけのメモ。その、アルファベットは。

誰が作ったのか。誰が置いていったのか。
改めて目の当たりにすると、棚に放置された食べ物なんて気軽に食べる人の気が知れない。あの教師がいる限り余程のことでもない限り危険は無い、等と呑気な思考は残念ながら持っていない。
よくよく食べる人がいたものだ。
相手への呆れ半分。自分への呆れも半分。
自分が作ったものを片手に、空いた手を伸ばす。


「……苦い」


ガタン、と何かがぶつかる音がして窓から外を見やる。随分と暗くなった廊下に人影は、無い。ジッと闇を見詰めて強張っていた肩を下す。そうしてまた齧りかけの菓子に目を向けた。
表面が少し焦げていて、中はギリギリ生焼けではない、形も少々いびつなクッキーの欠片。
不格好で苦くて舌触りもお世辞にも良いとは言えない。

格別優れたものでも、特別好ましいものでもない。けれど。
これを作り置くまでに何を考え、また食べた自分も何を思うのか。


まだ数枚菓子の残る皿と入れ違いに自分の皿を置き、ちょっと考え転がっていた鉛筆を握る。そうして、教壇に放置されていた付箋を一枚拝借し一言だけ書き添えて棚を閉めた。胸に占めるのは、ここ暫く感じるのに久しい満足感。

菓子をティッシュに包んでエプロンと共に畳み込む。皿を片付けてしまってから教師に声を掛けると気をつけて帰るようにと笑いながら手を振られた。
帰り支度も済んで戸口に立ち。最後にチラリと戸棚に目を向ける。

はっきりと意思表示したわけでもなく、言葉を貰ったわけでもない。
そもそも対面すらしていない僕らの行動は、回りくどいというより面倒なのに意味が無い行動にも思う。こんな事では互いに相手の嗜好も思考もさっぱり分からない。

それでも。否定、拒絶、そういったものしか出せなかった僕に合わせながらも何かを与えよう、求めようとしてきている彼へ一欠けらでも思いを返せるか。

分からない。分からない、けれど。

大きく息を吸い込んで戸を開く。少しだけ口角を上げて。行きより重くなった手荷物を抱え、廊下を駆け出した。






至高の菓子


「次も、待っています」









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