あ、と思わず声を上げそうになった。周囲の音が遮断され、徐々にスピードを上げていく自分の鼓動だけがはっきりと聞こえる。 平日の夜遅い電車は人もまばらで、ボックスシートの窓側に座った私から見える乗客は、つい今しがた斜め向かいの席に腰を下ろした彼だけだ。その彼の姿を見た瞬間、連日の残業と寝不足で疲労しぼんやりしていた私の頭は一気に覚醒した。
私の記憶よりもずっと大人びた顔。私の記憶にはないスーツ姿。少し頬が赤いのは、飲み会かなにかの帰りだろうか。 スマートフォンを操作していた彼の指が止まり、それをカバンに仕舞う動作を見て慌てて視線を反らす。
そういえば、10年前のあの頃もこんなことをしていた。
高校時代、私は良くも悪くも地味で目立たない子だった。普通の容姿、平均的な成績、部活での活躍も特になし。クラスの大人しい女子グループに属し、先生たちからは“手のかからない良い生徒”と評される。 そんな私と違って、3年間同じクラスだった食満留三郎くんは良い意味で目立つ人だった。精悍な顔立ちで、文武両道・成績優秀。委員会では委員長を務め、責任感があり世話焼きな性格から周囲の人望も厚い。 私は、いつの間にか食満くんに恋をしていた。
休み時間に友達と楽しそうに笑いながら話す姿を、いつも横目で見ていた。斜め後ろの席になったときは、授業中何度もその真剣な表情を盗み見た。でも、それだけだった。 一緒に日直になった時くらいだろう。まともに会話をしたのなんて。その時ですら、「日誌と黒板消しどっちやる?」「どっちでも良いよ」「じゃあ俺日誌書くから黒板任せた」「うん」以上。もはや会話したと言って良いのかも分からない。
もちろん、告白なんてできなかった。私なんかじゃ彼とは釣り合わない。誰の目から見ても明らかだ。
卒業式の日、最後だからと勇気を振り絞って、ボタンをもらおうかと考えた。でも、式が終わると彼はいろんな人たちに囲まれてしまって、気がついた時には彼の第二ボタンは姿を消していた。 私は地元の私大に進学が決まっていて、食満くんは都内の国公立の結果発表がまだだけど彼の成績ならきっと受かっているだろう。もう、きっとこれが最後。そう思った私は、食満くんの姿を目に焼き付けようと教室の隅っこから静かに彼の姿を見つめていた。 その時、不意に食満くんが、その鋭い眼光で私を捉えた。
無意識のうちに、膝に置いたカバンを抱える腕に力が入る。斜め向かいの食満くんは、スマートフォンを仕舞った通勤カバンを隣の空いた席にぽんと置いた。この先止まる駅は、こんな時間から乗ってくる人はほとんどいない。そうでなければ、気遣いのできる食満くんは膝にカバンを乗せたままだっただろうなと、ちらと思った。
卒業式の日のあの瞬間、私は瞬時に視線を反らした。バクバクとうるさい心臓の音を無視して、友人に声をかけ一緒に教室を出て、決して振り返らなかった。じっと自分を見つめていた存在に気がついた彼は、いったい何を思っただろう。その答えを知りたくなかった。
就職に伴い都内近郊で一人暮らしを始めて6年。こんな形で再び食満くんを目にする機会が訪れようとは思いもしなかった。そして、10年たった今でも高校生のころと同じように彼を見つめ、動揺している自分にも驚いた。
ふと、窓に視線を向ける。次々と流れていく夜景と重なってそこに写し出された食満くんと、窓の反射を通して目が合った。食満くんは、微笑んでいた。私が大好きだった、いや、大好きなその表情で、しっかりと私を見ていた。 視線を反らそうとしたけれど、できなかった。
「ミョウジ」
だよな?と、ほぼ確信を持ったような声色で尋ねられる。そんな、まさか。3年間同じクラスだったとはいえ、ほとんど話したことのなかった私なんかのことを覚えているなんて。そんなこと。
食満くんの、目が眩むような優しい微笑みに引き寄せられ、私は10年の歳月をかけて、ようやく彼へと振り返った。
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