それはあの日と同じ好奇心からの発言だった。今思い返せば安直な考え方だったとも思えるし既に芽生え始めたいた感情に気付かないでいれた最後の日だったかもしれない。いや、きっとそうだろう。とにかくあの日のオレは安直な思いのみで紺野センパイの名前を呼んだ。後にその言葉を本来なら抱いてはいけない感情を抱きながら口にするようになるまであとちょっと。その時のオレは好奇心猫を殺すという諺をまだ知らなかった。
「そういえば…紺野センパイってどの辺に住んでるんスか?」
「結構この近くだよ。二丁目のでっかいマンションのある河川のとこ」
「いいな〜。てことは学校から徒歩15分くらいっスね」
センパイは「だから結構ギリギリまで寝てから登校してるんだ」と笑った。そりゃそうだ。徒歩十分弱だなんて田舎ならまだしも電車通学やチャリ通の都会の学生からすれば羨ましがられる話だろう。かくいうオレも仕事の都合でどうしても駅の近くに居住を構える必要が高かったのでひとり暮らしを始めてからは電車で30分のところに住むようになったし。しかし15分か…毎日バスケとモデル業でクタクタになって毎夜死んだように睡眠を貪っているオレからしてもそれは随分魅力的に聞こえた。そんなオレの心情を察してくれたのかまたは顔に出ていたのかオレを見ていたセンパイが苦笑した。
「そうだよね…黄瀬君は毎日大変そうだもんね」
「モデルの仕事とか時間帯が遅いこともザラなんで部活終わった後に撮影とかマジ死にかけるっス」
「ははは…僕が言うのもなんだけどちゃんとご飯食べれてる?」
「うーん。一応バランス考えてスーパーで惣菜とか買うようにはしてるっス」
オレも思わず苦笑を浮かべてセンパイの台詞に相槌を打った。流石にバスケしてるし三食カップ麺というわけにはいかない。何よりそれで体を壊すなんてことあってはならないし、もしそんな食生活が笠松センパイにバレたりでもしたらシバかれるなんてものでは済まないのは目に見えていた。地味に痛いんスよね、笠松センパイのシバきって。
「じゃあさ、もしよかったら料理作ろうか?」
以前部活を見学に来ていた女の子たちに手を振り返して頭をシバかれたのはまだ記憶に新しい。なんて過去の出来事に思いを馳せていれば思いもよらない言葉がセンパイの口から投下された。思わず「え?」と素っ頓狂に聞き返してしまう。するとセンパイは小恥ずかしそうに頬を人差し指で掻くと不自然に咳き払いをしてオレをしたからのアングルで見上げた。
「嫌ならいいんだけどさ。この前のお礼も兼ねてと思って…」
「どうしようセンパイが女の子に見える」
「今すぐ善心な僕の好意を返して」
照れ隠しからかむくれる紺野センパイに慌てて謝れば「黄瀬君てたまにヒドイよね」と言われてしまった。うーん。どちらかと言えばオレにでもからかいやすいと味を占めさせたセンパイが悪いと思うのだけど、きっと今この言葉を口にするのは得策ではないと判断したオレはなんとか話の路線を元に戻す。得意げにセンパイをからかったくせに内心はぶっちゃけ浮かれている自分がいた。それを気づかれない為にあくまでも謙虚なヤツを装ってオレは社交辞令のテンプレート台詞を口にする。「そんな、別に気にしなくていいのに」センパイは律儀な人だから近うちに何かお返しをしてくれるのではないかとひっそりと思っている自分も少なからずいた。そしてそれに便乗したいと思っている自分も。オレは間髪を許さないように言葉を紡ぐ。
「ホントにいいんスか?オレ結構食べますよ?」
「もちろん。迷惑じゃないなら、ぜひ」
そういってはにかむセンパイは幼い顔立ちが相まってかとても可愛らしく思えた。これも男に向けて言う言葉としてはふさわしくないので口には出さないが。そのままズルズルと放課後の予定をセンパイとオレの予定と照らし合わせながら決めていく。どうやら幸いなことにそれは今日の放課後叶いそうだ。幸い今日は設備点検で部活はないし紺野センパイを待たすこともないだろう。
「じゃあオニオングラタンスープがいいっス!」
「君こそ女子か」
何かリクエストがないかと聞かれたので素直に自分の好物の料理を答えればすかさずツッコミが飛んでくる。そんなテンポいい自分たちのやり取りに思わず吹き出せば昼休み終了を告げるチャイムが屋上に響き渡った。最近はもっぱらバスケ一色だったので今日の放課後が楽しみだ。そして放課になるまであと二時間。
___放課後。学校が終わったオレとセンパイは昼食は購買や学食を利用する為、財布を所持していたのでそのまま最寄りのスーパへ直行し夕飯のための材料を買い込んだ。どうやらお礼と銘打った紺野センパイの言葉に偽りはないらしく、メインのオニオングラタンスープだけではなくバランスを考えてかサラダなど副菜も作ってくれるらしくレタスやトマトなどの緑黄色野菜が次々にカゴへと放り込まれていく。その間ずっと片手で携帯を弄っているセンパイに興味本位で尋ねれば「なにしてるんスか?」「どっかの黄瀬君がえらくオシャレなもの食べたいって言ったから付け合せの料理検索してるの」とこれまたひねくれた返答が返って来た。
そんなこんなしながら買い出しを終えたオレたちはそのままの足取りで紺野センパイの家へと向かう。学校から徒歩で行ける場所にある先輩の家は上がらせてもらいまず第一印象に思ったのは生活感がないということだった。なんかモデルハウスみたいな、まさにそんな感じ。通されるまま部屋に案内され部屋を見回したあと別室へと向かう先輩を引き止める。
「いいから。これはお礼だって言ったでしょ。黄瀬君は待っててくれるだけでいいよ」
「了解っス」
「品が品だから時間かかるかもだけど…」
「じゃ、適当にマンガ読んでるっスね」
「うん。そこの本棚にあるから」
センパイが姿を消して一気に静かになる部屋。なんだかこの言い、方スゲーオレだけが五月蝿いみたいだ。そんな世迷言を頭(かぶり)を振って頭の中から追い出しオレは指差された本棚へと腕を伸ばした。マンガのラインナップを目で追いながら意外にもセンパイがマンガを読むことを発見した。そこで、ふと手が止まる。オレ、紺野センパイのことあんまり知らない。例えば好きな食べ物や色苦手なこととか諸々。
「うーん」
なんだか今更センパイの趣向をマシンガントークで問い詰めるのも面白くないし、どうしたものかと首を捻る。相手が女の子ならスマートな聞き出し方のテクも多少は引き出しがあるが相手はセンパイだ。そして男。ダメだ。そこまで考えて一気に思考が頓挫し、ひとつの答えに行き着く。ゆっくり知っていけばいい。言葉の裏を返せば、オレがセンパイのことを知らないようにセンパイもオレのことを知らないということだ。うん。そうしよう。ものの数秒で結論に至ったオレは諦めて宙で彷徨わせていた腕をマンガへと伸ばした。
ぐつぐつコトコト。そんな食欲をそそるリズミカルな音と共にいい匂いが鼻孔をくすぐり始めた頃。ふと読みふけっていたマンガを離して窓の外に目を遣ればあたりはすっかり日が傾いて夜の帳が降ろされていた。もうそろそろ料理が出来る頃だろうか。オレは背を伸ばして唸り声を上げた。その際にあるものが目に留まる。不自然に置かれた一冊の雑誌のウラ面の角だけがベッド下からなんとコンニチハしているじゃないか。一瞬にして脳裏を過ぎる一つの確信。いわゆる男の聖書だと俗に言われているアレだ。思わずニヤける。センパイもお年頃っスね。そんなことを思いながら例のそれに手を伸ばした時だ。
「あ」
手を伸ばした拍子に近くにあったゴミ箱を倒してしまう。プラスチック製のそれは軽い音を立てて転がる。それと一緒に溢れた中身がラグの上に散らばってしまった。慌ててオレは中身を拾い集めようと散らばったゴミに手を伸ばしたのだけど。手に取った丸められたそれに付着する色に思わず手が硬直する。
赤。玉にされた何枚ものテッシュを染め上げるのは若干の変色が見られる赤色だった。脳内にフラッシュバックする出会ったあの日の紺野センパイの生気のない表情と台詞。頭ではプライバシーなことであり首を突っ込むべきではないと分かっていたが意思に反してゴミ箱を漁る手は止まらない。そして次々に出てくる赤色に染まったティッシュの玉と夥しい量の薬のシートの残骸。そして奥底に隠すように捨てられていた何十にもティッシュでくるまれた小さなカミソリ。ああ。見てはいけないものを見てしまった。オレは呆然としながらも転がったゴミ箱を元に戻した。その時だ、頭上から落ちてきた色のない声音に体温が降下する音が聞こえた気がした。
「…ご飯出来たよ、黄瀬君」
そう笑うセンパイの目は細められているもののひどく濁っていた。
「セン、パイ。ね、ねえ、これって…」
「ご明察の通りだよ。僕の自傷の産物だ」
レプリカは嘲笑った
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