霧野が狩屋への疑念を拭い、信じると決めた後も、彼からのちょっかいは続いていた。 以前と違ってそこにさほどの悪意がないせいか、霧野は怒るどころか呆れ返る。 被害に遭っているのが自分だけではないのを知っているのもあり、狩屋の行為は彼なりの甘えでもあるのだと冷静に分析できた。 霧野は狩屋が雷門に来るまではどこにいて、どう生活していたのかを知っている。 他の誰でもない狩屋自身がそう明かしたのだ。 なぜ同級生である松風たちではなく一つ年上の自分に話したのかはいまだに謎だが、素直ではない狩屋の性格を、霧野はよく理解していた。 しかし、そんな彼が自らの過去を話しても良いと思えるほど、彼の近くにいたとは思えなかった。 同じポジションで、小生意気な後輩。 ただ、サッカーに対する姿勢は嫌いではない。 そのプレーを見ているだけでも、本当にサッカーが好きなのだと伝わってくる。 真剣な表情でボールを追いかける狩屋は同性の霧野から見ても、……何と言うべきか、簡単に言えばかっこよかった。 「先輩」 不意に声を掛けられ、霧野はハッと我に返る。 休憩がすでに終わったことに気付かず、いまだに体重をベンチに預けていた。 練習が始まってもそこから動かない自分に見兼ねた狩屋がわざわざ呼んできてくれたのだとわかると、霧野はどうしようもなく恥ずかしくなった。 先輩としてのプライドももちろんそうだが、最も霧野を打ちのめしたのは狩屋に見惚れていた≠ニいう事実であった。 じわじわと顔が熱くなる。 心配そうに覗き込んでくる彼の顔を直視できない。 それらが意味するものを、霧野はまだ認められずにいた。 返事もしないで狼狽する霧野を見て、狩屋は首を傾げた。 この可愛い顔をした先輩は、その女らしい容姿に反して意外に男前である。 キャプテンである神童を支える彼は、さながら夫を支える妻と言っても過言ではなかった。 そのことが狩屋にとっていささか不愉快ではあったが、神童と霧野の仲は今に始まったことでもないので、気にしないことにしていた。 それなのに、今ここでベンチに座ったままの先輩は、呼びに来た自分を見て狼狽えている。 サボっているのがバレたから、というわけではないのだろう。 そんなことなら、ここまで顔を紅く染める必要はないはずだ。 「具合が悪いなら保健室に行った方がいいですよ」 いつもの霧野ではないことに、狩屋はそう結論付けた。 まさか自分を見て赤面したとは、思いたくてもできなかった。 どうせ虚しくなるのが関の山だと、半ば諦めていた。 「狩屋、霧野先輩見て一目散に駆け出したね」 戻ってくるなり何の悪びれた素振りもなく言う松風に、狩屋は小さく「うるさいよ」と一蹴した。 その顔がほんのり紅に染まっていたことに、一体何人が気付いただろう。 * 最近の霧野はおかしい、と神童は薄々勘付いていた。 話していてもどこか上の空で、ため息が増えた。 冗談のつもりで「恋煩いか」と笑い飛ばすことさえ躊躇われる。 いつも神童を支えてきた幼馴染みは深刻な面持ちで、とてもからかえる雰囲気ではなかった。 いよいよ心配になった神童は、狩屋に相談することにした。 練習が終わってすぐに呼ばれた彼は、もしかすると自分の霧野への想いがバレたのかもしれないと内心肝を冷やしたが、「霧野がおかしいんだ」という声に見事な肩透かしを食らった。 「はぁ……それが何か」 何故呼ばれたのか訝しげに伺うと、神童の目があからさまに泳いだ。 霧野の何が変わったかと言うと、狩屋を見ていることが多くなった点だ。 最初のうちは、同じポジションである狩屋の動きを見ているのだと単純に思っていたが、どうやらそうではないらしい、と確信したのが今朝である。 神童は部活中の霧野を見ていたから、原因は部活の中でしか考えられなかった。 それを覆すまでに至ったのは、部活外でも霧野の様子がおかしかったということ。 今朝、登校中の霧野を見かけた神童は、その視線が前方を歩いている狩屋に熱心に注がれているのを見てしまった。 それは霧野が部活中にぼんやりと彼を眺める姿そのもので、「これは何かあったに違いない」と踏んだ次第である。 だが肝心の狩屋は本当に何も知らないらしく、さっきから「何がしたいんだこいつ」と言わんばかりに神童を見据えている。 「いや、……その、最近霧野がお前を見てるから、何かあったのかと思ってな」 何もないならいいんだ、うん、と誤魔化すように付け足して去っていく神童に、狩屋は終始クエスチョンマークを出さずには入られなかった。 確かに最近霧野と目が合うな、とは思っていたが、それは自分が彼を見ているからだと、むしろ目が合ってラッキーだと、そう思っていた。 だから、狩屋はその逆の可能性を全く考えていなかった。 神童は自分と霧野の間に何かトラブルでもあったのではないかと思ったのだろう。 もちろん、狩屋には思い当たる節がない。 遊び半分にちょっかいをかけたりはするが、以前ほどの悪質な悪戯は全くしない。するわけがない。 「狩屋を信じる」と言った霧野の真っ直ぐな瞳を裏切りたくはなかった。 あんなに嫌がらせをされてもなお自分を信じた霧野が、以前の自分には確かに、とても愚かで滑稽に映った。 でも、今は。 霧野に興味を持ったのは、ある意味必然だったのかもしれないと狩屋は思う。 (霧野先輩が、俺を見ている……?) そういえばあのとき、霧野が練習が始まったことに気付かなかったとき、誰かの視線を感じなかっただろうか。 それに気付いたから、ぼんやりしていた霧野にも気付けたのではなかったか。 (俺、何かしたっけ) 全く覚えはないが、あの霧野が自分を気にかけているのなら、それは狩屋にとって喜ばしい事実であった。 * 「先輩、俺に何か用でも?」 神童に言われてからというもの、意識してみれば確かに霧野は狩屋を見ていた。 霧野が行動に出るまでは、と耐えていた狩屋はついに自分から出てしまったことに辟易したが、正直のところ限界であった。 期待して良いものなのか否か、生殺しの目に遭っていたが、それでも霧野を恨みきれず、結局は惚れた方が負けなのだと身をもって思い知った。 夕暮れの帰り道、狩屋に引き止められた霧野はばつが悪そうに俯いた。 「別に……何も」 霧野には、そう答えるのが精一杯だった。 そんなことには気付かない狩屋は、その態度が自分を拒絶したように見え、衝動的に霧野の肩を掴んでいた。 しばらく向き合っていたが、やはり霧野は狩屋を見ようとはしない。 霧野に何があったかはわからないが、直感が叫んでいた。 この人は自分から逃げている、と。 「……俺のこといつも見てるよね、なんで?」 つい敬語を忘れてしまっても、霧野はそれを気にするでもなく、ただ狩屋の瞳から逃れようと必死だった。 認めたくなかった。 認めるのが怖かった。 もし認めたとして、狩屋が自分から離れてしまうようなことになったら。 そんな恐れが霧野の中で渦巻いていた。 何としても、脱兎の如く走り去らなければならなかった。 手遅れになってしまう前に、早く。 「俺は、」 ゆっくりと、まるで禁忌の呪文を唱えるかのように慎重に口を開く狩屋に、霧野は息を呑んだ。 「先輩のこと、何も知らない。何が好きとか嫌いとか、全く。……おかしいですよね、他人とかどうでもいい、自分だけが信じられる。そう思ってたのに」 思わず顔を上げた霧野を、狩屋は捕えた。 逃がすまいとひたむきに、縋るように、肉付きの薄いその身体を抱き締める。 「教えてほしいんです、先輩のこと」 幻聴かと、霧野は思った。 狩屋が、あの狩屋が、自分に興味を持っているなど、そんなのは都合の良い妄想だと、どうして切り捨てられないのだろう。 男に、しかも後輩に抱き締められたのに、嫌悪は一切感じられなかった。 目頭が熱くなったのは、決して負の感情があったからではない。 とどのつまり霧野は狩屋の発した言葉が、態度が嬉しかったのだ。 今となってはもう先輩としての威厳など無いに等しい。 今なら素直に言える、そんな気がした。 「好き、だ。狩屋。お前が」 そして彼らは幸せそうに笑った 120129 |