耳が機能を失った、ように思われた。
晴矢は確かに言葉を発したのに、上手く聞き取れない。
頭はもう真っ白で、もしかしたら夢かもしれないと思えたらどんなに良かったか。
何の反応も示さない私を見て、言い聞かせるように晴矢は言った。
俺達は男だ。同性でこんなことをするのはおかしい。
お前のことは好きだけど、そういう対象とはちょっと違うと思う。
つらつらと述べる晴矢の言葉は鋭く、私の身体を容赦なく突き刺す。
頭から冷水を浴びたような気分だった。
ごめん、と呟く晴矢は、罪悪感からか私を見ようとはしなかった。

「……いや、気にしないでくれ」

私の方こそすまなかったな、と何でもないように軽く笑うのが精一杯で、語尾が弱々しくなっていくのが自分でもわかった。
ああ情けない、本当に情けない。
たかが失恋だろう、と自分の部屋に戻るや否や、やり場の無い気持ちを押し込めるように拳を壁にぶつけた。
だん、だん、と壁を叩き、その場にしゃがみ込む。
彼と同じ男である自分が、無性に腹立たしかった。
女だったら何の問題もなく彼と付き合い続けることができただろうに、とありもしないことを思う自分に、どうしようもなく嫌気が差した。
不意に響いたノックの音がやけに冴え渡って、錯乱状態だった私はやっと我に返った。

「風介、入るよ?」

そう言って部屋に入ってきたヒロトは私を見るなり、慌てて駆け寄ってくる。

「ごめんね、玲名に聞いたんだ。二人が話してるところ見ちゃったんだって」

ヒロトがあの醜態を人伝いとはいえ知っているのだとわかると、気が緩んだ私は彼に縋り付いてわんわん泣いた。
知り合い、それもヒロトに醜いところを見せるだなんて自分のプライドが許さない。
だが、それも普段の私なら、という前提があってのことだ。
ずっと好きだった晴矢に振られて弱りきった今なら、どんなにかっこ悪いところも見せられる気がした。
ヒロトは自分の服が濡れても文句を言うことはなく、よしよしと赤子をあやすように私を宥めた。
傍にいてくれるその温もりが、有り難かった。


*


あれからヒロトは、事あるごとに私を構うようになった。
気遣ってくれているのかと思うと何だか申し訳なくて、でも少しだけ嬉しかった。
何かの拍子に晴矢と二人になることがあっても、ヒロトが介入してくれたおかげで気まずくなることはなかったし、友達という関係を望む晴矢にとっても、きっと良いことだったに違いない。
すまない、と言うと何故か怒られるので、私はヒロトに心から感謝を伝えた。
今日も一人で部屋に篭っていたところを、遊びに来てくれた彼に。

「感謝されるようなことなんてしてないよ、俺」

困ったように笑うヒロトがわからなかった。
ヒロトがいなかったら、私は今でも晴矢と普通に話すことはできなかっただろう。
いつまでも引き摺らずに済んだのはヒロトのおかげとしか言い用がない。
それに、大分諦めがついたのだ。
晴矢が私を拒んだのは仕方のないことだった。晴矢なら良い人が見つかるだろう、と。

「本当に感謝してる。ヒロトがいなかったら私は……、」
「いや、むしろ俺は風介に謝るべきだと思うんだ」
「謝る……?」

何を、と問う前に口を塞がれて、それ以上は言えなかった。
何故自分の唇にヒロトのそれが触れているのか、考えるのもままならない。

「っは、なん、で」

ようやく離れたと思ったら、今度はきゅう、と圧迫感。
抱き締められていると気付いたとき、顔がひどく熱を持った。

「ごめん風介、我慢できなかった」
「は、」
「好きだよ」

私が晴矢と付き合う前から好きだったと耳元で言われ、ぞくりとした感覚が全身を襲う。
本当は私がもう少し落ち着いたら告げるつもりだったらしい。
それを、急に感謝なんてされたものだから耐えるに耐えられなかったのだとヒロトは苦笑した。

「……そうか」

ぽつりとそれだけ零せば、答えを求めているわけではないから安心して、と弱々しい笑みを浮かべてその腕から解放される。
ヒロトの言う通り、私は答えを出せるような心境ではなかった。
晴矢に振られたショックを慰めてくれたヒロトにさっさと乗り換えることができるほど、図太い神経は持っていない。
ヒロトのことは嫌いではない。
嫌いではないが、私がそういう対象としてヒロトを見れるかどうかは別の話だった。
私は晴矢が好きだったが、それは晴矢という人間であったからで、男だとか女だとかは関係なかったように思える。
そんなふうに思えないと、ヒロトとは付き合えない。
ヒロトも多分、わかっていたのだろう。
じゃあね、と手を振って部屋を出るその姿を、私はぼんやりと見送った。


*


それから一週間ほど経ったある日、ヒロトはあいかわらず私の傍にいた。
気持ちに答えてもらわなくても傍にいられるだけで嬉しい、と面と向かって言われたときは、さすがに赤面した。
なんでこんなに恥ずかしいことをホイホイ言えるのだろう。
慣れているのだろうか、ヒロトなら十分にありえる話ではあるが。

「……ん?」

ちくり、と胸に何か刺さったような、妙な感覚を覚える。
怪我をしたような形跡はどこにもない。
疲れているのだろうか。
部屋に戻ろうと冷たい廊下をひたひた歩いていると、突然どこかの部屋の扉が開いた。

「風介……」
「どうした、晴矢」

彼とはもう普通に話せるようになっていた。
特に驚いた素振りも見せずに問うと、晴矢は興奮したように私を壁に追い詰めた。

「お前、ヒロトと付き合ってんのか?」
「何かと思えば……そんなことあるわけないだろう」

そもそも、私が誰と付き合おうとお前にはもう関係のないことじゃないか。
そう言えば、晴矢はぐっと押し黙る。
しばらく沈黙が続いた。
晴矢は何か言いたそうに、私を見ていた。
その金に輝く瞳がゆらりと怪しく揺れる。

「……あのさ」

ついに口を開いた晴矢を、静かに見つめた。

「本当最低なんだけどよ」

ひやりとした廊下がいっそう寒さを増す。
ぶるりと身体が震えるのと同時に、晴矢が言う。

「もっかい、やり直さねぇか」

あのときと同じようで、正反対の状況。
一瞬思考が飛んだが、比較的冷静でいられた。
晴矢の言葉も、今はクリアに聞こえる。

「……それは、」
「俺、お前がヒロトと一緒にいるの見てらんねぇ」

そう言って晴矢が歯噛みしたのを見て、今までの私が何となくわかっていてあえて目を逸らしていたことに気が付いた。
晴矢は昔から、ヒロトに対して闘争心を燃やしていたのだ。

「晴矢、それは違う」
「何がだよ」
「お気に入りの玩具を独り占めしたい、……子どもと一緒だ」

私という玩具を他人に、特にヒロトに取られたくないだけ。
きっと、そうなのだ。彼は。
ヒロトが私を構わなければ、晴矢は私ともう一度やり直そうなど思わなかったはずだ。
だって、答えはもうすでに決まっていたのだから。

「男とは付き合えない、そう言ったのは君だ」
「だけどっ、」

晴矢はまだ何か言いたそうではあったが、結局黙ってしまったところを見るとやはり図星だったのだろう。

「君の幸せを祈るよ」

きっと良い人が見つかる。だから大丈夫。
刺すような冷たさがなくなった廊下を進み、自分の部屋に戻るとすでにヒロトがベッドに腰を下ろしていた。
自然とため息が出る。

「お前は……」
「今すぐ来なくちゃいけないような気がして」

にっこりと綺麗に笑うヒロトに、こいつはもしかしたら確信犯なのかもしれないと思った。

「背中、」
「へ?」

無理矢理後ろを向かせ、自分と変わらない体型なのにとても広く見えるその背中に額を軽く押し付ける。
すーっと緊張が解け、形容しがたい心地良さに身を委ねる。
いつのまにか、自分の落ち着ける場所はヒロトという存在あってのものになってしまっていた。
今まで無視していたが、ついに目を向けなければならなくなってしまったことに、皮肉のようなものを感じた。

「参ったよ、君には」
「……それって」



あたたかいひと



111209
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