「あ、」 日が暮れるのが早くなる、肌寒い季節に入ったばかりのある日。 何となく霧野先輩と並んで帰路に就くのが日課となっていて、やはりこの日も先輩と河川敷を通っていた。 クラスや部活のことなど取り留めのない話をすると、真面目な先輩はきちんと反応を返してくれる。 俺の嫌がらせに頭をぐつぐつ煮立てていたあの頃の先輩が懐かしい、と気付かれないようにこっそり笑う。 完全に信用したわけではないけれど、今の雷門中サッカー部なら、今の先輩なら、ちょっとは信じてやってもいいかなという気にさせてくれる。 いろんな意味で変な奴が雷門中に集まっていると思うが、正直な話、嫌いではない。 先輩の話に耳を傾けていると、不意にいつもは見かけないものを見つけた。 薄汚れた灰色の、ボサボサな毛並みを見て野良猫だと思ったが、首輪をしているので飼い猫なのだろう。 小さな影は、川沿いの木の下にちょこんと佇んでいた。 「先輩、あれ」 指を差してその存在を知らせるも、どうかしたのかと先輩は首を傾げるばかり。 もしかして、見えないのか。 そういえば自分は視力が両目2.0なのだということを思い出した。 先輩はそれより悪いのかもしれない、そう思った途端に俺は先輩の腕を引っ張り、丘を駆け下りていった。 「猫ですよ、猫」 人間に慣れているのか、近付いても逃げる様子がない猫はこちらをじっと見つめている。 こちら、と言うよりは霧野先輩、と言った方が良さそうだ。 猫に見つめられた先輩は少し身動ぎ、じっと猫を見つめ返す。 なに猫とにらめっこしてるんですか、とからかうような口振りで言えば、すかさずチョップをされる。 「うっさい!」 ぐるん、と先輩がさっきまで猫に向けていた顔を俺に向けると、猫がいきなり飛び上がる。 一瞬の動きに目を見張るが、どうやら猫は先輩の髪に興味津々のようで、ゆらゆら揺れるツインテールに一生懸命手を伸ばしていた。 「猫を虜にするとは……なかなかやりますね」 「んなこと言ってる場合かっ」 伸び上がった猫に驚いた先輩は尻餅をついていて、ますます猫にじゃれつかれている。 満更でもない様子の先輩に少しむっとして、猫を横取りする。 暴れる様子もなく、すんなりと俺の胸に収まった猫は相当人間に慣れているのだろう。 くあ、とあくびまでし始めた。 「あ、ずるい」 「さっきまでじゃれてたんだからいいじゃないですか」 先輩への対応もそこそこに、猫の喉を撫でる。ごろごろ。うん、可愛い。 「捨て猫、かな」 その薄汚れた体を見て、先輩が言う。 首輪はしているが、飼い猫ならこんなに汚れはしないだろう。 毛並みだってボサボサなのだ。 「迷子かもしれませんね」 飼い主とはぐれてしまったという可能性もある。 だとすると、このままここにいて飼い主に会える保障はどこにもない。 もしかしたら、ここではないどこかではぐれてしまったのかもしれないし。 それに最近寒いし、川に落ちたら危ないし……。 「俺、こいつ連れて帰ります」 きっぱりと言った俺に先輩が目を丸くしたかと思うと、すぐに怪しむような目で見られた。 「……お前、ただ単にその猫が可愛くなっただけだろ」 「違いますよ。もし捨てられちゃったりしてたらかわいそうだなって思って」 もちろん、念のために飼い主を探しますから、先輩も協力お願いしますね。 そう笑みを作って頼めば、先輩は仕方がないなと肩をすくめてみせた。 「いつでも見に来ていいですからね」 「……それは、お前の家に来いと言うことか?」 「それ以外に何があるんです」 にっこりと笑って言うと、猫がそれを後押しするようににゃあ、と鳴いた。 * それから何日か経ったけれど、手がかりはなし。 猫を連れて河川敷や近くの通りも回ってみたが、何の効果も得られなかった。 やはり捨てられてしまったのだろうか。 腕の中で大人しくしている猫を見て、思わず眉を顰める。 なんだかこの猫が他人事とは思えなくて仕方が無かった。 「捨てられた、か……」 孤児院に引き取られていなかったら、俺は今頃どうなっていただろう。 考えたくもないが、確実に今の俺ではなかったはずだ。 霧野先輩とも、会うことはなかっただろう。 誰にも心を開かず、騙されるぐらいならこっちから騙してやると躍起になることもなく、人との関わりを絶っていたかもしれない。 そんなつまらない人生を送っていたかもしれないと思うと身の毛がよだつ。 いいや、もしも、もしもの話だ。もう考えるのはやめよう。 「先輩、」 今まで俺が目を付けて嫌がらせをしていた相手。 面白いぐらい俺の手の上で踊ってくれて、滑稽で、笑えて、嫌われるのも承知の上だったけれど何故か、許して、くれて。 正直、拍子抜けだった。 たった短い時間で、警戒心だらけの先輩があんなに態度を変えるとは思ってもいなかった。 俺が霧野先輩だったら、絶対許さないし信じない。 信じて馬鹿を見るのは親だけで十分だ。 俺は違う、って思ってた、のに。 「ん?」 ふと、猫の首輪に何か付いているような気がして目を凝らす。 皮の首輪は二重になっていて、その隙間に小さな紙切れが隠されていた。 * 「誰かいるのか?」 「今はいません」 やっと家に来てくれた先輩は、靴を綺麗に揃えてからお邪魔します、と小さく挨拶をした。 誰もいないって言ったのに律儀な人だな。 ふっと笑うと、一瞬だけ睨まれた。 やだなあ、別に馬鹿にしたわけじゃないんですってば。 そう俺が言う前に、先輩はリビングを占拠している猫に真っ直ぐ進んでいった。 「おお、前見たときと全然違う」 灰色がかっていたボサボサの毛はミルクのように白く、撫で心地抜群のふわっふわ。 先輩は目を細めながら、ふわふわと猫を撫でる。 「良かったな、良い奴に拾われて」 良い奴、……ってもしかしなくても俺のことだろうか。 じわりと顔が熱くなったのには気付かないでおく。 首輪に挟まっていた手紙は飼い主だった人が書いたもので、ある事情で飼えなくなったから誰か拾って下さい、とのことだった。 それを見たときは、中途半端な捨て方をするものだと不快で仕方なかった。 俺のときと一緒だ。この猫は、俺だ。 手紙をぐしゃぐしゃに握り締めて猫を抱え直すと、にゃあと鳴いた猫が俺の頬を舐めた。 捨てられたことに気付いているのかいないのか、猫はじっと俺を見る。 その真っ直ぐな瞳を見て、俺はこいつに敵わないと思った。 捨てられてもなお、人間に懐くこの猫は俺とは違う。 これ以上傷付きたくなくて殻に篭った俺なんかより、ずっとずっと真っ直ぐで眩しい。 お前捨てられたんだぞ、わかってるのか。 そう語りかけると猫はか細く鳴いて、俺は何故か泣きたくなった。 「名前、決めた?」 楽しそうに振り向いた先輩に撫でられて、猫は気持ち良さげにごろごろしている。 「……ふわふわでごろごろしてるから、ふわごろう」 「はい却下」 「即答ですか!?」 けっこう苦労して付けたのに、と零せば先輩は苦笑した。 あ、絶対馬鹿にしてる。くっそむかつく! 「じゃあ先輩が付ければいいでしょ、命名霧野蘭丸で」 「こらてめ先輩を呼び捨てにすんな」 にゃあ、と。 鳴いた。猫が。 先輩が口を開いたのと同時に。 「……今のは何に反応したんだ?」 「蘭丸」 「いやそれはな、」 にゃあ。 猫はまた鳴いた。 「らんまるー」 「やめろおおおお」 ひょい、と抱き上げると猫はにゃあにゃあ鳴いた。 耳を塞ぐ先輩をにやりと見つめ、できるだけの笑顔を作った。 「ビンゴですよ先輩、諦めてください」 本当はすでに「蘭丸」と名前を付けていた、なんて先輩にはまだ教えてやらない。 捨て猫二匹 (それがただの嫌がらせかなんなのか、自分でもわかっていない) 111123 |