DISCOMMUNICATION | ナノ









放課後の教室は静かだ。空疎ではない。静けさに溢れている。静けさをいっぱいに閉じ込めている。だから零れ出さずに、ただ静かで、言葉や声や物音も膜を張ったように浮かぶだけで空間に閉じ込められる。ぺた。ぺた。だらしなく踵を潰した上靴を引き摺って歩く足音が近付く。聞こえてはいるのに意識を向ける気にならない。音は耳を通って脳に染みこんで、溶けていく。思考は回らない。

「帰んないの?」

すぐ横で足音が止まる。声が落ちてきて、床につぶれた。跳ねて飛び上がるような弾力性はない。

「お前こそ」
「俺は今帰るとこ。」
「ならさっさと帰ればいいだろ」

防衛にまわった意識が言葉を吐き捨てた。木目の床の上を、投げ出した両腿の隙間を滑って向こうの扉にぶつかってその辺に落ち着いた。

「可愛くねーな」

足は動かない。
早く帰ればいいのに。さっきの言葉は遠くに転がって手を伸ばしても拾えない。だから黙って静寂を共有した。もう少し弱めて言えば拾える範囲に落ちただろうに。

「……制服汚れるんじゃない?」

掃除当番、まともに掃除してないし。笑いながらすぐ隣で小さく動く気配がした。目をやる。やってから後悔する。後悔するのだ、いつも。片手を窓枠について向こうを見る横顔が、伸びた前髪を揺らしながら夕方の光を浴びている。
気が付いたらしい諸星が何の気なくこちらを見た。そこから見たら、自分はどんなに暗いところにいるように見えるだろうか。窓のすぐ下では光は届かない。濁りきったものが沈殿している底。目が合って離せなくなる。引き上げて、なんて思わないけれど、黙ったままで見ていられると静かにおかしくなりそうだ。凪いでいるのにどこかで何かが壊れていきそうな感覚。いや、もう壊れているから、凪いでいるのかもしれない。
眩しいのだ。眩しくて眩しくてどうしても、羨ましいのだ。それを思い知らされる。目をやるたびに嫌になるほど思い知らされるからいつだって後悔するのに、それでもまた視線を動かしてしまう。

「泣いてんの、もしかして」
泣いてない。誰が泣くか。馬鹿な奴だ。
「捨てられた猫みたいな顔してんじゃん」
「……捨てられたんじゃない、捨てたんだ」

彼の顔から笑みが消えた。一度唇を閉じてまた外を見た目が、考えるように色を深くする。薄い唇が必要最低限にだけひらかれた。「知ってるよ」、小さな金属のようにゆるりと降下してくる音と一緒に、彼が隣にしゃがみこんだ。一瞬浮いた髪が金色に光った幻をみせる。同じ視線に沈んでも、輝いて見えた。茶けた瞳は自分の望む何もかもを持っていて自分の望まないなにもかもを切り捨てているように、なま白い肌も空気を含んだ軽い髪も、校内規定の黒い学生服でさえも彼が身につければそれは特別の輝きを纏って息づいているように見えるのだ。

「俺、お前の一番怖いもの知ってるよ。」

どうしてわざわざ、底まで降りてきたのだろう。好きでいるのだ、この箱のこの底に。閉じ込められているのではなく、閉じ篭っているのだ。捨てられた猫の、振りをしているのだ。諸星の指がこっちに伸びて乱れたままだった耳の横の髪の毛を軽く触った。

「だから俺には、お前のことは拾えない」



いちばん怖いものを知っている、というのは、いちばん大事なものを知っているということだ。捨てられたい猫のどこに大事なものを隠していられるというのか。
くく、と諸星が堪え切れないといった風に笑った。何がおかしい、と睨みつけようとしたら、

「ほんと、お前、猫みたい」

今度は惜しみない笑みを向けて言った。

思わず目を逸らす。目を逸らしてから、安全なところで口を開く。
「前にも言われた気がするな、そんなこと」
「え? 言ってねーよ」
「馬鹿だから覚えてないんだろう」
「言ってないってほんと」
「言った。」
「言ってない」
「言った。」
「言ってない!」
「馬鹿」
「……ほんっとに可愛くねー奴だなー」



暗い海の底からなら、眩しくて見えないということはない。だから見失うことはないけれど、その手を掴んで引き上げてもらうことなんて夢にも思うことは許されない。友情とか恋慕とか敵愾心とか所望欲とかそんなんじゃもう、全然ない。ただ見ていたいのだ。壊さず傷つけずすべてがそのままでいられるようにと思いながら。何もかもを放棄して何もかもに放棄された場所で寂しく見ていたいと思うのだ。それが一番のしあわせだと思った。そこに嘘があるのは分かっていても、自分が自分を憐れむ以外には救いを見いだせないと思った。それなのにどうして、一番に隠し通したい相手に見抜かれてしまうのだろう。見抜かれたいと思っていたのだろうか――――否、そんなことは考えたって言葉にするべきではない。

笑えた。笑えた自分を見て諸星が立ち上がって上から笑った。かさついた指がなぞった皮膚の奥で熱が蠢きだす。突き放す言葉が、気がつけば手元まで転がってきている。いまなら拾えるのに、握り締めた拳がそれを叩き潰して粉にした。捨てられたんじゃない、捨てたんでもない。本当は、何を言ってもお互い、捨てきれないだけだ。







(ああ、どうしてこんなところまで来てしまったんだろう、二人とも。)













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