絡み合った舌が解けて離れた。隙間から夕方の橙がさして、二人の間を滴って落ちた透明な糸を飴色に透かせる。
一息置いてからコースケの唇がゆっくりと言葉を紡いだ。
「知ってた?」
「……何を」
「いーよ、今更無理しなくて。」
終太郎の頬に影が落ちる。かさついた指がその頬を緩く降りて何もなすことなく落ちていく。
「早く終わればいいと思ってたんだ」
「……いつから?」
「ずっと前から」
――――なあ。
コースケの手が終太郎の手を撫でるように触れて指の先をなまやさしくからめとる。彼にそんなふうに触れられるのは終太郎には初めてのことだった。空気を含んでふわりと浮いた前髪が夕陽にあたって淡くオレンジに光る。小さくかがみこんだコースケの影が終太郎のそれと重なって、もう一度唇が触れたが今度はそれだけで熱を確かめてすぐに離された。
「どう思ってんの、本当は」
コースケは見上げる終太郎の視線に優しく笑みを返す。
「欲しいもの欲しいって言わないと、どこにも行けないんじゃないの」
耐え切れなくなったように終太郎が視線を外して俯いた。
「……そんなもの」
ほらまた。言おうとした言葉をコースケは飲み込んだ。それは、当人が充分にわかってしまっているのであれば身動きが取れないのは道理に思われたからだ。終太郎の表情を見れば、その苦悩の種類は明らかだった。道ならいくらでもあるのに、選べないから進めない。切捨てられないのだ。それは優しすぎるから、のはずなのに、結果的にはもっとも惨酷な結末を招いてしまう。今もそうだった。今日に続くまでのどこかで拒否をしてくれればもっと傷ついただろうが、こんなに傷つけた意識に苛まれずに済んだのに、とコースケは思うのだ。どこまでぶつければ笑わなくなるだろうか、そんな残虐たらしい考えさえ浮かぶ。どこまで追い詰めて削ぎ落とせば、見えてくるだろう。
「ま、煩い口出しする気はないけどさ。」
自分より上背のないどこか弱弱しい体をコースケが繋いだ手からひきよせた。やはり抵抗も反発もしない終太郎は俯いたままコースケの胸にぽすりとおさまった。
「被害者になりたくなったら来ればいいよ、いつでも」
あ、言い方があざとかったかな。へへ、と笑ったコースケはどこか気恥ずかしそうでもあった。黙ったままの終太郎の体から少し固さがぬけて、コースケの胸に重みが加わった。お。少し驚いた目でコースケは終太郎の頭を見下ろす。
「優しいな…お前は」
「いじめてやるって言ったんだけど?」
「お前の優しさに甘えているな、僕は」
「……もっと甘えてよって思ってるんだけどね、こっちは」
コースケの腕が優しさを離れて、白い学生服に包まれた体を強く抱き締めた。
コースケにとって、終太郎の髪の匂いは好きな香りだった。香りづいた彼の周辺の空気を空の瓶にでも閉じ込めて肌身離さず持ち歩いて、好きなときに蓋を開けて確かめたいと思うくらいに。そんなことを思うのは、それがどうしたって手に入らないものだと分かっているからだ。目に見えないものは捕まえて離さないようにずっと手の中に閉じ込めておくことはできない。瓶に詰めたって空気は中ですでに色を失くしているだろう。手折った梅の枝が山を出ると萎れてしまうのと同じだ。香りそのものが、成分の調合のバランスが好みを生み出しているのではない。好きな人間が嗜んでいるものだから好きなのだ。輝くものの周辺に認められて存在しているあいだだけ、反射して特別な光を放つのだ。それならもしかしたら、今の自分も少しは光っているのかもしれない。そんなことを考えてコースケは笑いたくなった。別に恩恵が欲しいわけじゃない、光ってみえない「そのもの」に少しでいいから、触れてみたいのだ、と。そしてそのためならどれだけ泥をかぶって醜いものになっても構わないと、そう思っていたはずなのに。
ごめん。小さな声が耳に届く。幻かもしれない、と思えるくらい、伝わったのが不思議なほど小さな声で。
「なんで謝るの」
「……ありがとう」
「だから、なんで」
コースケの声が震えた。ちぐはぐではあったが笑いのかたちは取れていた。冗談みたいだ。ごめんもありがとうもいらない。そんな綺麗な、自分を綺麗にして光らせる言葉は、コースケにはいらないのだ。何より終太郎からそんな言葉を自分に渡させるのは一番嫌だった。
「似合わないよ、面堂」
「……うるさいな」
笑ってやると少しむすっとした声がくぐもって聞こえる。
光らない言葉が欲しかったのだ。聞いてみたかった、というよりは、言わせて見たかった。純粋な立場関係を敷いて、ただ自身のための本当だけを残せばそれでいられるように。終太郎のそんな場所になりたいと、コースケは思っていた。
「――最後にさ。」
ちょっとだけ目、閉じて。
緩められた腕のなかで一瞬ちらとコースケのほうを伺ってから終太郎は静かに瞼を閉じた。その従順さに頼んだほうが戸惑ってしまいそうなほど。
どうしたって手に入らないから、こんなに欲しくなるのだろうか。終太郎の頬に優しく触れながら、コースケは思う。いくら触れても汚せる気がしないのは、そもそも手にしたいなんて思っていないからかもしれない。手に入らないと分かっているから、おそれもなくこんなに綺麗なものに触ることができたのかもしれない。何度触れてもその体温の奥にあるものは決して掴めないから、分かっていたから安心していたのかもしれない。はなから返事を知っていれば言葉を投げかけるのは容易になる。それは自分への保険だ。だからコースケは、終太郎に本当の意味で傷つけられたことはなかった。ごめんもありがとうも全部、コースケを直接に傷つける言葉ではない。コースケを傷つけるのはコースケ自身でしかなかった。だからいつも、一番伝えたいことだけ言えずじまいなのだ。
少し迷った唇が、終太郎の額に一つだけ、ゆっくりと小さなキスをした。
(やっぱ、最後まで言えないや。)
コースケは静かに笑顔をつくった。瞼を開いた終太郎のためではなく、自分の終わる恋のために。