きみの王子様になれない | ナノ














夕方から雨が降ると、天気予報では言っていた。

「嘘ばっかりね、予報なんて」

からりと晴れた空を背景に隣のしのぶは白い肌を透かせて笑った。

「……よく笑ってられんな」
「どうしてよ」
「ついさっきまで死人みてーな顔してたのに」
「そのほうがよかったかしら」

風が流す髪を右手で抑えながら試すように笑ってこちらを見る。

「ま〜元気になったならいーけどよ。」

向こうの街を見るフリをして視線を逸らした。
しのぶにこういう表情をされると、なんだかひどく落ち着かないのだ。

鉄柵に組んだ腕を乗せてその上に顎を乗せる。
視線の高さにいた鳥が街に降りていった。
そのまま角度をおろして覗きこめば下校する生徒達の浮ついた影の蠢いているのが見える。
黒い制服、濃紺のセーラー服。
自分としのぶが着ているのと、同じものだ。


























悪意を伴った噂が騒々しく駆け回るようなことはなかった。意外にも。
ただ静かに、正しい認知が廊下を流れていくように校内に染み透っていった。
まわりはもちろん驚いた。
事実そのものには当然として、それ以上に当事者達が異様なほど静かだったことに驚いたのだ。


「疲れちゃったのよ」


頬杖をついて、活字を眺めたまま、しのぶは言った。
しのぶの言葉に聞き耳を立てはじめた男子の団体を睨み付けてやると引きつった笑みを浮かべながら部屋から消えた。
からんとした教室。

「あいつといりゃあ疲れんだろーな」
「そういうんじゃないわよ」

しのぶの白い指が端の茶けたページを一枚捲った。

「あのひとに疲れたんじゃなくて、自分に疲れたの。」

ページを捲っておいて、視線を頁上に置いておいても、もうその目が本に向いていないということは明らかだった。
しのぶはたまによく分からないことを言う。
それは多く、あの男に関する話をするとき。
下向きに伸びた睫が黒目がちの瞳に影を落として、制服に包まれた彼女の体が全身から粉の匂いを漂わせる。
自分のよくしらない匂いだった。


「……よく分かんねえけどよー」
「そうね、分からないかもしれないわ。竜之介くんには。」

しのぶは優しげに言いながら、また読んでもいない本を一ページ捲った。

「分かんねえからこそ、分かりにくく突っぱねなくても損しねえんじゃねーか?」

しのぶの目がはじめて自分に向いた。
驚いたように少し開かれた瞳。
ゆっくりと光が和らいで、睫が蛍光灯の光を乗せながら、そこに微笑を宿す。
本の表紙をぱたんと閉じてからしのぶは片頬杖でこちらに首を傾いだ。
思わずどぎまぎしてしまうような色めかしい視線だった。


「竜之介くんって、ほんと不思議ね」
「な、何だよ。急に」
「分かるか分からないか、よくわからない。」
「……何言ってんだ、おめえ?」


こっちからしたら急にこんな目つきで意味不明なことを言い出すしのぶのほうが全然よく分からない。
隣の机に座ったままきょとんとした俺から視線を動かして、しのぶは手慰みに自分の筆箱に触れた。
そして一息に話し始めた。


「わたし、嫌になったのよ。人間って呼吸して食事して睡眠するでしょう? 竜之介くんもするわよね。わたしだってするわ。家に帰って手洗いうがいして、部屋着に着替えて、宿題したり明日の時間割そろえたり、ごはん食べたりお風呂入ったりテレビを見たりするでしょ。そういうの、私だけじゃなくて、あのひともそうなんだって思うと、もうどうしようもないの。いちいち考えて怒ったり喜んだり心配したり苦しんだりするのとか、一秒ごとに彼が彼でいて私のなかに彼が特別な彼であることを認識しなおすのに、疲れちゃうのよ。そうするとどうなるか分かる? だんだんね、自分が好きなのか彼が好きなのか分からなくなるの。だから別のところで純粋にあのひとに愛されることを望む存在が恐ろしいの。わたしの一喜一憂全部ニセモノなんじゃないかって、わたしは好きな気持ちの正しさで対抗して勝ちたいだけなんじゃないかって思うのよ」

しのぶの手はいつの間にか金属を握り締めていた。
鋏だ。

「笑っちゃうでしょ。」
嘲るように。でも笑ったのはしのぶ一人だ。

そんなしのぶに向けて口を開きかけた瞬間。
沈黙の空間にチャイムが響いた。

「あら、もう授業なのに誰も――――」

しのぶの顔が廊下に向けられ、硬直した。
振り返ってそっちを見る。

「――――っな……」

おそらくこのクラスの生徒だけじゃない。野次馬根性の生徒達が張りつくように廊下からこっちを眺めて息を詰めていた。

「おめえらっ! 見世モンじゃねーんだぞ!!」

廊下に出て怒鳴り散らすと、いかにも落胆したようにつまらない顔をしながらわらわらと教室に入ってきた。数名の生徒は自分達のクラスに逃げるように帰っていった。

「ああも〜、これからがいいとこだったのに」
「修羅場か、ラブシーンか!っていう」
「やっぱりあたるくんなんかより竜之介さまのほうがいいのよきっと」
「いやに親密そうだったわよねー、ドキドキしちゃった」
「聞こえなかったけどなんの話してたのかしら」
「決まってるじゃない! そんなの――」
「…あ、ちょっとしず子、声でかい…」

興奮しながら教室に入っていく女子の団体に横からつめたい視線を送ったが、それに気がついたのは一人だけだったし随分と遅すぎた。

「おいおめえら」
「あっ、竜之介くん、あたしたち別に…その」
「好き勝手なこと抜かしてんじゃねぇ。しのぶの気持ちも考えてやれねえのか」

女子達の表情が困ったように曖昧に歪んで互いに戸惑い責任を押し付けあうように視線を交わしあい始めたとき、

「よし、授業始めるぞー席つけい!」

後ろから図太い教師の声がひびいた。それを助けとばかりに彼女たちはぱたぱたとそれぞれの席に駆け寄った。
逃げ際の笑い混じりの小さな声が、周波数の高さで耳に届いてしまう。
「竜之介くん、怖ぁい」
「やっぱできてんだよー! 庇っちゃって!」
「乗り換え早〜」


ちっ。
舌打ちしながら自分の席についた。
左を少し振り返ってしのぶのほうを見てみると、前の席の女子となにやら話しているようだった。
「ね、何の話してたのよ! しのぶ!」
「や〜ね。何でもない普通の話よ」
女子の声にはどこか揶揄が滲んでいる。対するしのぶは“いつものしのぶ”の潔白な笑顔だった。





















一日の授業が終わってから屋上に連れ出した。
がらんとした教室で一人座っていたしのぶは、黙って席を立ってついてきた。

柵に寄りかかった彼女の顔が影で隠れる。
はためく彼女のスカートの裾から零れるように、やわらかい洗剤の香りがする。

「女って怖えよな」
「そう?」
「普段ぴちぴちべたべたしてるくせに、なんかあると野次馬好奇心丸出しで集団になって何でも言うじゃねーか。」
「なんだ、そんなことなの」

ふふっ、と大人が少女のふりをするようにしのぶが笑った。

「安心しちゃった。」
「おまえはあんなふうに見世物にされていやじゃねえのか」
「そうねえ……」

悪戯の仕方を考えるように唇が三日月をかたどったと思ったら、
ふわりと肩までの髪を浮かせて無表情のしのぶがこちらに距離を詰めてきた。

「?」

思わず身構えようとした腕を掴まれる。
そのまま腕を回されてどこか青白い顔が学生服の胸に埋もれた。

「何し―――…!」

困惑したまま叫ぼうとした喉に、冷たい尖端の感触。

「……おい、しのぶ、これ」
「女の子ってね、竜之介くん。」

鋏より冷たい鋭さで、しのぶの声はダイレクトに脳に切り込んでくる。

「もっとこわい方法で、人を傷つけることができるのよ」

「……しのぶ」

その言葉を聞いて、怖い、よりも、危うい、という思いが勝った。

自分よりも華奢な体に手をかけるとしのぶは小動物のように肩を震わした。
試すように両腕を回すと小さな驚きや戸惑いは伝わってきたが拒否は示さない。
その感触に任せてそのまま抱き締めた。

しのぶの言うことは時々わけが分からない。
実際、今日のしのぶの独白だってほとんど何を言いたいのか分からなかった。
ただ笑うしのぶの手の中で刃を閉じたままの鋏が光をぬらりと弾いているのを見て、危うい、と思ったのだ。
今だって。



「俺、おめえのいうことやっぱ全然分かんねーけどよ」

両腕にすこし力を込めてみる。
喋るたびに喉に冷たさが少し食い込む。

「……分かんないなら黙ってなさいよ」

くぐもった声がかわいい悪態をついた。
光を弾く綺麗な黒い髪からまたいい匂いがする。

「しのぶが思ってるほど、怖くねえと思うぜ、俺は」
「……だから、黙ってなさいってば」

金属を握る手が力なく降りていって、かちん、からん、音をたててコンクリートを跳ねた。
しのぶの手が弱弱しく俺の学生服を握った。
泣いているのかもしれない。








人が人を傷つけるのに、本来鋏なんて必要ないのだ。
たとえば、しのぶがその鋏を正しく使用して、女子の風評によるところの“泥棒猫”である彼女の青い髪を憎しみからばっさりと切り落とす場面や、優柔不断でだらしのない“最低男”の胸の皮を突き破って鋭利な部分をその心臓に突き立てる場面を想像しようとする。
どう考えてもそれは正しい絵にはならなかった。

しのぶのことを何もかも知っているわけじゃない。いまだって知らない面に出会って戸惑っている。
でもだからこそ、抑圧された部分が、自分の知りえない彼女がまだ存在していることはなんとなく分かる。しのぶを構築する様々のバランスが時折ぐらついて、そこに潜在する屈折が浮上して見えるから、しのぶは危うかった。
クラスメイトの女子と一緒に他愛のない恋の話をしているしのぶの笑顔が、内面に埋めているもの。突っぱねて閉じこもって閉じ込めて、渦巻いている粘性の感情。それは流れ出すことはない。だからしのぶがその手で致命的に深い傷をつける先はしのぶ自身でしかありえないのだ。そこから溢れ出す熱の通ったものに目を向けなければ、自分で自分の正しさを信じることはできないのだから。






「……元気なわけないじゃない、ばか…」

放課後の学校にいつまでもチャイムは鳴らない。
視線をずらせば下界を歩き回る同じ学生服が小さく見える。
同じ制服を着ていても、自分はしのぶにとって彼のかわりにはなりえない。
そしてまた、青い髪の彼女のかわりにはもっとなりえない、と、個人的には思うのだ。
しのぶがもうほんの少しだけ強くなったとき、そのことに気付くだろうか。
確かなものがなければ意思は刃のかたちをとらない。なによりも強いものをしのぶは、あたたかい容器に液体のままにしている。そのかたちを目で見るのを怖れて、固体にしようとしないのだ。(それはもしかしたら、今の自分も同じかもしれない。)
怖れを断つことは誰にだって難しい。分かっているふりをして一歩手前で完結するのは一番簡単で害のない賢い遣り方だ。でもそんなものはまだ、いい匂いのする制服を身につけてキラキラ光るあやういガラス細工のようなしのぶという個体のなかで完璧に遂行されるべきものではないように思うのだ。



風が揺らした黒髪からまた、花の匂いが漂う。
教えてやることは簡単だ、でも、自分にはできないと思った。
それはしのぶが、しのぶのなかで綺麗なままの彼や彼女を傷つけられないのと同じように。

落ちたままの鋏が無機質に灰色のコンクリートに溶け込んでいる。
手を伸ばす必要はないが、遠くに蹴飛ばしてしまうのも今はまだ、早い。















ラムしの燃える



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