さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で背の高い門をくぐり抜けていく。 汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。 スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように、ゆっくり歩くのがここでのたしなみ。 私立友引女学園。ここは、乙女の園――――。 「ごきげんよう、しのぶさん」 よく通る声に、振り返る。 爽やかな朝の並木道に似合いの透き通る笑顔がわたしを待っている。 「ごきげんよう、終子」 少し止まって、彼女が横に並ぶのを待った。 光を弾くと紫がかった色に反射する長い髪が、彼女の歩みに合わせて舞う。 冷たい朝の空気のなかでぴんと背筋を伸ばして歩く姿は誰よりも凛としていて、ずっと眺めていたいくらいに美しい。 「今日もとってもいいお天気ね」 「ええ。いい一日になりそう」 整った顔立ちは厳しささえ感じさせるのに、誰にともなく微笑んだその表情にはなぜだかとても親しみがわくのだ。 「……どうしたの、しのぶさん。ぼっとしちゃって」 「い、いえ、何でもないのよ」 「あ。……しのぶさん、少し止まって」 「え?」 何事かと立ち止まると、しなやかな指が迷い無くわたしの胸元に伸びた。 思わず身構えそうになった。のを、ばれないように必死で抑えた。 「ごめんなさい、タイが曲がっていらしたから」 優しい仕草で白いタイをそれに負けないくらい白い指がそっと結びなおす。 その手先を伏せた目で見つめる彼女のまつげの微細な動きを見ていたくて、でも自分の中のなにか急いた気持ちがそこから視線を外すよう忠告していた。 逡巡のうちに、タイを結び終えた彼女の手は触れてきたときと同じようにそっけなく離れていった。 「あ、ありがとう、終子」 「いいえ。今日は少し、風があるものね」 にこりと笑う彼女の胸元のタイはしかし、いつもと寸分も違わぬ美しさで結ばれている。 ――――こんなときいつも、かなわない、と思うのだ。 それはわたしだって、自慢ではないが、これまでそこそこモテてきた。 小学校の頃から周りの男の子たちにはちやほやされていたし、中学に入ってからは校内で清純派といえば、というポジションを常に保ってきた。 今だって、下級生には慕われているし街に出れば誘いの声はいくらでもかけられる。 冷静に自己評価しても、客観的に見たら羨ましがられるような場所にいると、思う。 それでもわたしは、常に負けているのだ。 一番大好きで一番大切な、私の一番の親友に。 横を歩く彼女の顔をのぞきみると、何やら真剣な目つきでどこかを見つめている。 その視線の先を追いかけると、どうやら前を歩いている近くの共学校の女生徒達のようだった。 「もう。怖いのね、委員長さんは」 「え?」 びっくりしたようにこちらを向いた瞳に、得意げに笑って返す。 「どうせ、スカートが短すぎるわ、とか考えていたんでしょう」 「いやだ。しのぶさんには何でもお見通しね」 「終子はいつもそうなんだから。たまには他に目を向けなさいな…ほら、いますれ違った男子学生なんて、毎日毎日終子にあっつい視線送っているのに」 控えめに振り返って確認した終子は、肩に落ちた髪を耳にかけながら照れもせず平然と笑った。 「あれはしのぶさんを見てるのよ」 「またそんなこと言って。しらばっくれてばっかり。」 「そんなことないわ」 「終子は人気があるんだから、ボーイフレンドの一人や二人作ったらいいのに」 ややあきれ気味に言ってみると、きりりとした眉を困ったようにさげて笑った。予想通りの反応だった。 「わたし、男の人ってよく分からないし…――」 甘ったれた言葉が続く前に何か言ってやろうと思ったとき、突然、ノーマークだった手を掴まれた。予想外。 指と指を絡めるように繋がれて、身を寄せられる。 思わず体がこわばった。 「しのぶさんといるほうが楽しいから、いいの」 「…ま、またそんなこと…」 「そうだわ。しのぶさん、わたし今日誕生日なの」 「あ――……、そうだったわね。おめでとう、終子」 「ありがとう。ね、今日うちでパーティをするんだけど、来てくださる?」 「呼んでもらえるのならもちろん喜んで行くわよ」 「嬉しいわ」 繋いだ手をそのまま嬉しそうに軽く振られる。 本当は誕生日なんて忘れるわけがない。 一ヶ月も前から何をプレゼントしようかと悩んでいたんだから。 終子はわたしの誕生日に毎年素敵な贈り物をしてくれる。 でもそれは果たして、一ヶ月も前からわたしのために悩んで買ってくれているだろうか。 終子は毎年開く盛大な誕生日パーティに私を呼んでくれるけれど、果たして私に声をかけるのはいつも何番目なんだろうか。 小さな風が髪を揺らして、視界を邪魔した。 そっと髪の束をつまんで、脇に戻す。 コシのある日本的な黒髪は、家族にも友人にも行きつけの美容室にも、通りすがりの知らない人からでさえも褒められる。 「しのぶの髪は本当に綺麗だ、世界で一番綺麗な髪だよ」 祖父母に生まれたときからずっとずっと言い聞かせられて育った。 私の髪は私の誇りだ――――、でも今は、世界で「二番目」に綺麗な髪として。 すぐ横で長い髪が同じ風に小さく揺れている。 きっと触れたら、滑らかで、柔らかくて、いい香りがして、綺麗で、繊細で、儚くて……ううん、美しすぎてもしかしたら触れるわたしの指先が切られてしまうかもしれない。 髪だけじゃない、わたしは、こわくて終子に簡単に触れられないのだ。 握っている手はあたたかい。もちろん、鋭い刃物のようにわたしの皮膚を切り裂いたりしない。 分かっているけれど、やっぱりわたしは、終子がわたしに触れてくるようは終子に触れることはできない。 (きっと終子は、わたしが終子を好きなのと同じようにわたしが好きでは、ないんだわ。) 手を繋いだままに何でもないように―――というか実際何とも思っていないのだろう―――前を向いて歩く彼女の横顔を見つめた。 視線を感じたのか、黒目がこちらを向いた。 にこ、と少し目を細めて横顔で笑ってみせる様子には、凛としたお嬢様の余裕がいやでもにじみ出ている。 (そんなこともうずっと前から分かってる。) (だからわたしは、ずっと負けているんだ、終子に。) ×
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