車 | ナノ








丁度マンションのエントランスを一歩出た途端、近所迷惑なクラクションが夜に響いた。自分に向けられたものだとすぐに分かる。舌打ちを一つしてから、敷地外の植え込みの向こうの街灯の下に止められている白のミニバンのほうへ足を向かわせた。
運転席の扉の脇に立つと窓がゆっくりと沈下して、中の人物が顔を覗かせた。一緒に灰の匂いがくゆりと車外に漂った。

「意外と早かったな」
「………………何を考えてるんだ貴様は」
「乗れよ」

顎で助手席を示される。話は中で、ということか。不満は募るばかりだがとりあえずは向こうの要求をのむことにした。ボンネットをまわりこんで助手席に座りこむ。
「狭苦しい車だな」
言いながらドアを閉める。
「会社のだよ」
煙を外に吐き出しながら諸星が答えた。丁度街灯の真下に位置しているから、フロントガラスから見ると光の及ぶ範囲の外は闇に沈んでいた。
羽織る間もなく手に取ってきたトレンチコートはどうやら不要だったようだ。ぞんざいに畳んで膝に置いた。今夜は空気が湿って生温い。おかげで狭い車は煙の臭いと灰の粉っぽさで非常に不快な空気をいっぱいに詰め込んでいた。

「……非常識だろう」
「なにが?」
「こんな夜に。突然知らん番号から電話が来たと思ったら。家の前にいるから出てこい? これが非常識以外の何だと言うんだ」
「俺、昔っから非常識だけど知らなかった?」
「……」

もちろん知ってる、嫌というほど知っている。けどだって、だからといって――――いや、まあいい、今更。非常識なこいつに何を言っても埒が開かないのもうんざりするくらい知っているのだ。
どっか行きたい?と言われたから、お前の運転に付き合うなんて自殺行為はしない、と返した。運転、うまいって結構褒められるんだけどなあと言いながら諸星はハンドルから手を離した。煙草なんて吸ってるのを見たのは初めてだったから(それはそうだ)少しめんくらったが、話してみると笑った表情は知った顔だった。


「しかしお前がまともに会社勤めをしていたとはな」

開け放った窓から片肘を突き出して向こうばかりながめている隣の男は、チャコールグレーのスーツに赤いネクタイで見てくれは新卒採用の好青年のようだ。

「営業だけどね」
自嘲気味に喉を震わしたのに合わせて煙が揺れる。
なるほど営業か。通りで身なりが小綺麗になったと思った。

「面堂は? 社長になれそ?」
「……どうせ知ってるんだろう」
そっけなく言うと
「つれねーやつ」
と笑われた。
実際、社長になるために下積みをしている最中だった。役職こそそこまで大きなものではないが、父の仕事上の重要な会談や取引に同行し経営のノウハウを吸収している毎日だ。
教えてもいない――というか教える機会すらなかったのに、一人で住んでいるマンションの場所さえ知っていたのだ、そんなことはもうとっくに奴の耳に入っているだろう。誰から聞いたのか、どこから知ったのかなんて興味もないから聞かないが。

「いーよなあ、こんないいマンションに一人暮らしって気楽で。自炊すんの?」
「大体はな。たまに手伝いを寄越されるが」

そもそも一通りのことは自分でできるようになろうと始めた一人暮らしなのだからそうでないと意味がなかった。

「料理できんだ。いーねえ」
「諸星は」
「相変わらずあいつがまずい飯作って待ってるよ、毎日」

馬鹿にしているようで、笑い方は純粋に楽しそうだった。
――ラムさんか。
まだ二人が当然のように一緒にいたという事実に、今更ながら流れた月日の分厚さを感じた。

「元気か」
「ラム? 元気だよ。変わんねーよ、あいつは」
「お前も変わらないな」
「そう? 面堂だって変わんないじゃん」

諸星の軽い言葉の余韻がゆっくりと湿気を吸って閉じた車内に落ちていった。
変わらない、というのははたしていいことなのかよくないことなのか、全く分からない。諸星はそんな深い意味など込めず放った言葉なのかもしれない――きっとそうなのだろうけれど、シートベルトもしないでこんな日常以外の場所に座っていると何かを重石に思惟に潜っていなければ体が浮き上がってしまいそうだった。そう、煙草の煙みたいに。
ジジ。時々危うげに点滅しながら灯る街灯に蛾が二匹、競うように煩く飛び群がっている。
諸星も何事か考えていたのか(できるなら彼の脳内で考えていることは自分のそれとは違うものであってほしいと思った)、車内が2人の心拍と静寂で満ちようとしていた。水位がどんどんあがって窒息しそうになった頃、短くなった煙草の火を揉み消す音と一緒に諸星が口を開いた。

「面堂さ」
「…ん」
「ラムのこと好きだった?」
「……何だいまさら」
「俺のこと、憎い?」

かわらぬ抑揚で落とされた声に胸を突かれた。憎いか、だって?
ライターを擦る音がして、小さな火が奴の口許に点される。それを見遣る振りをして時間を稼いだ。

「馬鹿を言うな。僕はラムさんに幸せになってほしかったんだ。諸星といることでラムさんが心底幸せならそこに問題はない。あるはずないだろう。だいたいそんな高校時代の話なんて、わざわざ10年振りに会いにきてまで引っ張ることじゃない」
「……急に饒舌になったな」

一度大きく息をフィルタに通して煙草が燃えはじめたのを確認してから、諸星が初めてこっちを見た。

「怖いんだろ」

やめてくれ、と思った。煙草を挟む指先が昔より骨張っている。だって10年も経ったんだ、きっと触れた感じもまた違っているんだろう、そんなことに考えが及ぶ自分が嫌だった。

青白く発光したままの無音にしたカーラジオの液晶に手が置かれた拍子に、煙草の先から灰がほろりと崩れた。落下して砕けた灰の最期に意識をとられているそぶりで、近付いてくる気配から気を逸らすことに苦心する。

「……それとももう忘れた?」

耳元に頬を寄せられて、昔よりもっと低くなった声で囁かれる。意識の奥でなにかを燻らされるような感覚を必死で留めようとする。座席の背もたれにかけられていた諸星の手が耳に触れて頬に触れて、それだけで離れた。
息が止まりそうになる。

「――忘れる、わけがない」

零すまいと思っていた言葉が、息継ぎしたらぽろりと出てきてしまった。重たい空気が首筋に纏わり付いてじんわりと汗ばむ。こんな狭い箱の中では苦しくて息ができない。ネクタイを今すぐ緩めたいのに指先が硬直して動かない。窒息してしまう。2人だけの車内に満ちていくのは沈黙に見せかけた過去の鬱屈だ。


一度だけ、だった。本当に一度だけ。きっかけとかどうしてそうなったかとかももう覚えてない。確かに記憶しているのは日陰の部屋の黴くさい篭った臭いと今みたいなべたつく肌の感じと、知らなかった指と関節の使い方。どこか朦朧とした意識は今思えば熱病にうかされていたようでもあった。腑のなかで蠢く虫のような発熱体が侵されるたびに浮くように消えて、離れた途端またじりじりといたみだすから、首筋に縋りつく腕が離せなくなった。止めてくれる正しさの存在しない密室でほんの2・3時間おかしくなったように繰り返し求めあってそれきり、次の日からは当然のごとく今までどおりの牧歌的で他愛のない日常を再開した。会話になんてもちろん出さないし、お互いに対する態度もこれまでと何も違わない。そのまま卒業まで双方まるきり変わらない毎日を演じた。まるで何もなかったかのように。湿った密室でのあの時間のことを時々思い出しては、あれは本当に現実のことだったのかと一人思った。もしかしたらこの記憶は自分の捏造した想像かもしれない。額を擦った前髪の感触や鼓膜に焼き付いたまま二度と聞かない息遣いや体の内部に今もまだ癒えない傷のように残る疼きも全部もしかしたら自分の潜在意識が補完した偽物かもしれない。きっとそうだ、と思うようにした。
二人の秘密なのか自分だけの秘密なのか、それすらも分からないまま閉じた箱のような記憶は開かれることなく腐敗していった。内部から爛熟した芳香さえ放つまでに。





「憎い? まだ、俺のこと」

かさついた指先が返事をせがむように小さく唇をなぞった。学生時代には見たことのないような、鋭利な眼差し。
―――― 憎い、憎いさ。憎いに決まってる。変わらないお前が憎い。執着を彼女にかこつけて自分を誤魔化していたのに、全てたやすく気付いてしまうお前が憎い。卒業してから10年も音沙汰なかったのに今頃になって突然現れるお前が憎い。すっかり忘れた振りしてたくせに、このまま忘れてもうすぐ振りが振りじゃなくなる頃だったのに。その指がこの表皮に見えない爪痕をつけたあの日からお前のことが憎くて憎くて憎くて憎くてたまらない、嫌いだ。大っ嫌いだ。
心に渦巻くのはどす黒い憎悪だけ。それなのに。

「…何で、今更」
自分の唇がようやく押し出したのは、震えるか細い声だった。

じり、まだ長い煙草の火が捩り消された。だめだ、火を消したら。暗くなってしまう。あのときみたいに。真っ直ぐ見つめてくる瞳がゆっくりとでも明確に近付く。押し付けられた唇の隙間から質量をもって入り込んでくるのはフィリップ・モリスの甘さ。逃げようとした後頭部がガラス窓にぶつかった。逃げられない。確実な挙措で背広のボタンを一つずつ外していく手が腹から胸をすべるようにのぼってネクタイを引く。制止をかけようとした喉は酸素不足に喘ぐだけで声を落とせない。こんな密室では苦しくて息ができない、だからはやくボタンを開けて欲しいとさえ思う。四輪駆動の自動車に乗ったって、僕達はどこにもいけやしない。ただ閉じた世界で止められるはずもないのに時間を止めたふりだけして腐っていくだけだ。うめつくす鬱屈は過去の蓄積か今なお降り積もり続けているのかもう分からない。重心移動で力をかけた諸星の指がラジオのボリュームを押した。安いラブソングがどこか遠くの世界のもののように聞こえてくる。吐息に熱が混じったら今度こそもう帰れなくなってしまう。いけない、と思うのになぜか続きを哀願するような溜息ばかりが湿った密室に篭った。空気が重たい。雨になるかもしれない。顎をあげて伏せた瞼の裏で、閉じた車内に雨水が満ちていく。二人で呼吸を諦めた密室。それは酷く、とろけるほど甘美な腐敗臭を放つ想像だった。膝の上のコートがするりと足元に落ちる。明日が来る前にこのまま箱の中で息を止めてしまえたらいいのにと、強く願って目を閉じた。




















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